70人が本棚に入れています
本棚に追加
/92ページ
「はーい。今、行きます」
「早くね。冷めるわよ」
それだけ言うと、母は一階へと下りていったようだ。
慌てて電話に戻る。
「真上君?」
「ん」
声が聞こえて、まだ電話が繋がっていることにほっとした。
「お待たせ。ごめんね」
「俺の方こそごめん。もしかして今から夕食?」
「あ。ううん、大丈夫よ」
「ありがとう。でも食事まだなんだろ。もう切るよ」
「え。も――」
もう少し話していたい。
そう言いたかったけれど……素直に伝えられない。
私は口を噤んだ。
「え?」
「ううん。じゃあ、切るね」
「ああ。――あ、そうだ。明日一応、会社の最寄り駅で連絡を入れてくれる? 俺も何かあったら連絡を入れるよ」
私も業務が多ければ、定時に終わるとは限らないものね。あまりにも遅かったら、そのまま直帰することになるかもしれない。
……明日はより頑張ろう。
「うん、分かった。そうするね」
「じゃあ、また明日。――おやすみ」
夜特有の艶やかで、しっとりと耳に忍び込む彼の声にどくんと鼓動が高鳴った。
「おやすみなさい。じゃ、じゃあね」
「ああ」
最後は余韻に浸る時間も取らず、逃げるようにさっさと電話を切ってしまった。
感じ悪かったかな。でも耳元でおやすみはないでしょう。彼は意識して言っているわけじゃないのだろうけど。
私は部屋を出て、ぶつぶつ呟きながら一階のリビングへと下りていき、中へと入る。
すると母は私の顔を見て小首を傾げた。
「あら、里香。ご飯いらないの?」
「いるよ?」
「だってあなた」
唇に指を当て、母はくすりと小さく笑った。
「胸が一杯で食べられないって顔しているわよ」
「え!?」
母のその一言に、リビングで寛いでいた父と弟がぎょっとした表情でこちらを見たのだった。
次の朝。
玄関にある真上君の傘を手に取ると母が言った。
「今日はお天気よ」
「傘、返そうと思って」
「昨日の電話の人?」
「うん」
怖い。なぜ分かる、母よ。
「そう。それって」
母はふふと唇で笑う。
「急いで返す必要があるの?」
「え?」
「あなた、お父さんに似て自分の気持ちを表現するのが苦手よね」
私にはまだ借り物という理由が必要かもしれない。
「じゃあ、気を付けて行ってらっしゃい」
私の気持ちに委ねたようでそれ以上は言わず笑顔で送り出す。
「……はい。行って来ます」
家を出た私の手には傘が無かった。
最初のコメントを投稿しよう!