浜中美月の説教

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「行ってきます」 「行ってらっしゃい」  母に声を掛けて、玄関に置いてある真上君の傘に手を置いた。 「あら。傘を返すの?」 「う、ん」  前に傘を持って行かなかった時は彼に催促されたわけでも、持って行くと宣言したわけでもないから、傘が無くても問題はなかった。  しかし今日は傘を返したい(から会いたい)と言ったのだから、当然持って行くのが普通だろう。  一方で、それを言い訳にする自分に情けなさも感じる。素直に会いたかったからと言うべきではないのか。  ……ひとまず会社まで持って行って考えよう。  悩みを先延ばしにするという名案を思いついた時。 「わーっ! 遅刻する遅刻する!」  弟の理がバタバタと玄関に駆け込んで来た。 「もっと余裕持って起きなさいと言っているでしょう?」  やんわり母が窘めるが、理は明日からねと言いながら靴をあたふたと履いている。 「慌てて転ばないように気をつけなさいよ」 「はい。行ってきます」  理はあっという間に玄関から姿を消した。 「あの子も来年は社会人でしょ。大丈夫かな」 「ふふ。どうかしら」  身体だけは私よりも大きいが、私からすれば理はまだまだ子供だ。  ため息を吐く私に母はのんきそうに微笑む。 「あ、いけない。じゃあ、私も行ってきます」 「気をつけてね」  母の見送りに軽く手を振って家を出た。  爽やかな青空を見ると嫌なことはリセットされ、意欲が湧くような気がする。  うん、頑張ろう。  気合いを入れると駅の改札を通る。  あれ、でもさっきから何か忘れている気――はっ。 「傘!」  時既に遅し。  一日中、職場で落ち着かなかったのは……言うまでもない。 「どうしよう」  仕事が定時に終わり、電車に乗り込む前に連絡しようと思ったわけだが、傘を忘れた事態に頭を悩ませる。  でも彼の駅まで十五分はあるし、電車に乗っている内に良い考えが閃くかも。  先延ばし精神をここでも発揮して乗り込んだ。  ――が。 「どうしよう」  悩んでいる内に着いてしまった。正直、想定内です……。  携帯を手に持って冬眠前の熊のようにウロウロしていると、真上君からメッセージが届いたのに気付いた。 『定時に終わりそう?』  私が連絡しなかったからだ!  慌てて返信する。 『着いた』 『どこに?』 『真上君の駅』 『いまいく』  変換も煩わしかったのか、それだけ届くとメッセージが途切れた。
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