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上映十分前になるとロビーに入場のアナウンスが流れてくる。今、アナウンスされたのは、ぼくの見たい映画よりも十分早く始まる別のやつ。ということは、あと二十分で見たい映画が始まってしまう。
ぼくは両手に抱えていたリュックをぎゅっと握った。ここで躊躇していちゃだめだ。だってこんな機会はもう二度と来ないかもしれないんだから。
何度めかの意を決して、口を覆っていたマスクを人さし指でずらして小さく息をつく。マスクをもとに戻して一歩、足を踏み出した時だった。
「水瀬(みなせ)?」
後ろから名前を呼ばれてぼくは飛び上がった。心臓が急にドクドクして、頭がくらっとする。誰がぼくを呼んだのかと声のした方へ振り返った。
「やっぱり水瀬か。おまえ、どうしてこんなところにいるんだ?」
シネコンの入り口からぼくに向かって歩いてくる男の人がいる。ぼくはその背の高い男の人のことをよく知っていた。そう、その人はついこの間まで中学校で国語を教えてくれていた金沢(かなざわ)先生だ。
金沢先生は学校ではいつもスーツ姿だったのに、今はVネックのシャツにジャケット、そしてジーパンというラフな恰好だ。髪も軽く後ろに流して、何だか見慣れた先生よりもとても若く見えた。それだけじゃない。何と先生は首からネックレスまで下げていた。
「水瀬、おまえの家はこの近所じゃないよな? 誰が一緒なのか?」
ぼくは急に怖くなってしまった。自分がとても悪いことをしているような気がして、金沢先生の問いかけに応える余裕も無い。体まで震えてきて、ちょっぴり瞳も潤んでくる。
マスクをした俯き加減のぼくに背の高い先生が上体を屈めて視線を合わせてくる。そして、
「そうか、ひとりで映画を観に来たのか。俺と同じだな」
先生がぼくの顔を覗き込みながら、にかっと笑った。ぼくはやっと先生の顔を見て、
「……金沢先生もひとりなんですか?」
「なんだ、おまえ。ひとりでこんなところに来て、彼女も居なくて寂しいやつー、とか思っただろ?」
大きな手のひらがぼくの頭をくしゃっと撫でる。ぼくは首を引っ込めると、「そんなこと、無いです」と小さく呟いた。
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