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学校の先生に代わるね、と言って金沢先生に携帯電話を渡した。その子どもっぽい携帯電話を先生に見せるのは嫌だったけれど、先生はまったく気にすることもなく大きな手が小さな携帯電話を耳にあてて、お母さんと話を始めた。
「私は○○中学で国語を担当しております、金沢と申します」
低くはっきりと響く声はとても落ち着いていて、授業で聞いた声とも違ってぼくは少しドキンとした。金沢先生はゆったりとした口調で、ぼくとこのシネコンで会った経緯をお母さんに説明している。その話を俯き加減で聞いていたら、金沢先生がびっくりするようなことを電話に向かって言い始めた。
「ご心配されているのは重々承知しています。ですが、どうしても映画が見たいと独りでここまで来た彼の想いも叶えてあげたいと私は考えています。帰りは私が必ず無事に送りますので、彼の小さな我が儘を赦していただけないでしょうか?」
ぼくは思わず顎を上げて金沢先生の顔を見つめた。先生もぼくを見ながら笑顔で、
「ええ、それは勿論。はい、彼の様子が少しでも変わったらすぐに。はい、はい。……ああっ、そうですか、ありがとうございます。はい、必ず夕食までには」
金沢先生がぼくに向かって左の瞼だけをぱちんと閉じた。あれはウインクなのかな、と思っていたら左手でオッケーサインまで出している。
「あ、では彼に代わります」
金沢先生が返してくれた携帯電話から聞こえるお母さんの声はさっきよりも落ち着いていた。
先生にご迷惑をかけないのよ、少しでも気分が悪くなったら直ぐに帰るのよ、と心配そうに言うお母さんに、もう一度、ごめんなさい、と言ったぼくに、「ユウちゃん、楽しんで来なさいね」と優しく言ってくれて電話が切れた。その声にぼくは胸の奥がじんとなる。これはいつもの苦しいのじゃない。
「よしっ、じゃあ行くぞ。先ずはチケットを買って、それからポップコーンとコーラだな」
「ポップコーン?」
「そうさ。映画鑑賞には定番だろう?」
金沢先生がぼくに笑いかけてくれる。その笑顔は初めて見る笑顔でぼくは今度はドキドキして胸を押さえた。
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