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短刀を帯から引き抜いた。動脈に向けて刃物を当てる。一息に引けば血液は飛び散り、小雪はあの世へと旅立つことができる。
けれども仲間の無念が小雪を止めてきた。
憎き敵の首を獲れと声がするのである。
負けるなと小雪の死への旅立ちを邪魔したのだ。
幻聴が聴こえるようになっては終わりだと小雪は力尽きたように畔に座り込む。
泣くでも喚くでもない表情の先には透明な湖が広がっている。
考えることを拒否したかった。しかし小雪の脳に染み込んだ現実は拒否できる事柄ではなかった。
心は壊れていた。立ち止まることさえできなかった。意識をもぎとられるように苦しみばかりが増えていく。
冷えた湖の湖面を風は通りすぎる。
叫ぶことさえ忘れた小雪の身体を誰かが抱き上げた。
抗うことも忘れるくらい絶望に押し潰された小雪にはどうだって良いことだった。
いつ倒れたのかも自分自身が喪失していては答えようもなかった。
名前も嫌だった。名前を呼ばれる度にこの惨劇と悲劇は自分が呼んだと思い知らされる。
春日小雪。
震えるほど嫌いな名前だ。
それを死ぬほど嫌いな男に呼ばれることほど屈辱的なことはない。
けれども小雪にはその力すら残っていなかった。
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