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すぐに戻ったとしても、きっとまた同じことを繰り返すだろう。日々積み重なってできたしこりは、そんなにすぐにはなくならない。言葉の端々が気になる今の自分が時生のところに戻っても、きっとまた粉雪のように静かに心に積もっていくだろう。
心のどこかで、本当はもう全部投げ出すために、離れられる理由を探していたのかもしれない。嫌なところを見つけて、不満をため込んで。だけど、それが嫌いになって離れる理由にはどうしたってならないのだ。
港に向かって車を走らせていたとき、もしかしたら、生きながらに人が生まれ変わる瞬間があるなら、それは誰かや何かと離れて新しい道を踏み出す時なのかもしれない、と伊吹は考えていた。すべてを捨てて、一から踏み出すとき。けれど、それは彼女にはまだ必要がないようだった。
夫と互いにちがう日々を過ごして、自分や周りとのことを見つめ直して。なにかを決心するには時間が必要なのだ。たまに連絡だけは取りながら、お互いの関係をもう一度真剣に考えてみよう。そう提案してみよう、と伊吹は心の中でつぶやいた。
「悩んだらいくらだって聞いてやるし、泣きたいときは胸も貸してやるよ。お前が居たいと思うところで笑ってられるように」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でまわされて、伊吹はただただ胸が苦しくて、また目頭が熱くなった。時生よりも分かりやすくて、時生よりもこんなにも優しいこの手を取らない自分をバカだと思った。それでも、これは一生もんだな、と笑った。
外の空気でも吸うか、と言って狩野が車を降りたので、伊吹もそれに倣ってドアを開けた。
「あー、うまくいかないなー、なかなか」
外に出ると、伸びをするように伊吹があえて明るく声を上げた。
「うまくいかねぇことなんか、人生くさるほどあるだろ。それでも、俺は悪くねぇって思うよ。お前と会えたことも、後悔なんてしてねぇしな」
「うん…あたしも。ありがとう」
そして、そうのんびりもせずに伊吹は狩野と別れた。
車に乗り込んで時計を確認すると、22時を回ったところだった。深呼吸を一つすると、あえて番号を押して電話をかける。電話帳をひらかなくても頭に入っている、たぶん、人生で一番たくさんかけてきた番号に。
『…はい』
「もしもし?ごめんなさい。これからのことについて、きちんと話がしたいんだけど」
潮騒が夜の闇に静かに響いていた。
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