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「賢太はっ?!」 勢いよく玄関の扉を開けた時生が、リビングの伊吹に声を掛けた。 「部屋にいるよ。時生、先にちょっとこっち来て」 すぐにでも賢太の部屋に行きそうになっていた彼を止めてリビングに促す。 賢太がいなくなった理由を、賢太が言った言葉を、彼に話して聞かせた。それを口にすると、自分に刃を立てているような心地がした。 「賢太がそんなことを…」 ありきたりな映画の1シーンのような台詞だと思った。時生の心を、伊吹はうかがい知れない。能面のようにも見えるその表情が、今や何もかもを覆い隠してしまっている。 しばらくの沈黙のあと、時生の口からため息とともにこぼれた。 「疲れたな」 あぁ、私たちは一緒にいてはいけない。それが決定打だった。 私たちはいつからこんな場所にいたのだろう。大事なものを置き去りにして、二度と戻れない場所まで来ている気がした。恐怖じゃない。これは、もっと仄暗い絶望の中に取り残されたような、ひんやりと凍てつく感覚。 伊吹は、もう力なく言った。 「ねぇ、私たち、離れよう。それがたぶん、今は一番いい気がするの」 時生は絶句していた。予想もしていなかったというように、いつになく青ざめた表情が見て取れたが、もう遅かった。 翌日、賢太を連れて実家に帰ることにした。幸い、日曜日で両親とも家にいるから都合が良かった。賢太を残していくわけにはいかない。伊吹はすべてから解放されたかったが、ギリギリのところで母親としての責任を果たさないとと自分を押しとどめた。残業ばかりの時生に任せるわけにはいかなかったからだ。 離婚するかどうかは少し時間が立ってから決めようとだけ告げた。
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