赤いシロップ

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赤いシロップ

一年くらい昔の話になるが、俺は一度だけ誰かがリストカットをしている場面に遭遇したことがある。顔も知らない名前も知らないそいつは、ひどく苦しそうに顔を歪めてカッターを握り、その手首に刃を当てていた。泣きそうな顔をして、その手首に紅い線を引いていた。 その時の俺は、余程辛いことがあったんだろうと、特に話しかけることもなくそのまま気付かれないようにその場を後にしたんだが。 二度目に遭遇したリストカットの場面。 まさか人生で二度もそういう場面に遭遇するとは思っていなかったが、俺にとってリスカする人間イコール、辛いことがあったと認識していたわけで。だがその人物は、紅い線を引きながらその傷ついた手首を眺め、笑っていた。 「先輩って、吸血鬼みたいですね」 その風景はひどく不思議なものに思えて、一年前とは違い俺は気付いたら、その人物に声をかけてしまっていたのだ。 血より甘いもの 五月も中盤に入り、温暖化の影響でそろそろ暑くなってきたなと思い始めてきた某日。その日の授業もようやく終わり、部活動生たちが騒がしく校庭やら体育館へ駆け出して行くのを見送った後、帰宅部である俺はなんとなくそのまま家に直帰する気にもなれず、屋上へと続く階段をひとり上っていた。 直帰したくないからといって、未だクラスメートたちが残っている教室にいる気にもなれず、だからと言って静かではあるが真面目くんの学習場と化している図書室に顔を出す気にもなれず、この場合仕方なくといったところだ。 それにしても、すでに半袖で過ごしてもいいと思える気温の中に、わざわざ日当たりが良すぎる外に飛び出していきたくないのが本音。陰の多い裏庭には不良よろしくな輩がたまっているだろうから、却下。屋上にもその可能性があったのだがやつらだってわざわざ太陽に近いそこにたまることもないだろうと思い、賭けのような心情で俺は屋上を選んだ。 「誰もいませんように」 ついでに言えば、風で少しでも涼しい場所になっていますように。 そんな願いを込め小さく祈りを呟き、おもいっきりその扉を開ける。 最近では、屋上を開放する学校も少なくなっている。もちろんうちの学校とて論外ではない。 年々自殺志願者が増えるこの世の中、学校側とてそう易々と自殺場所を与えたくはないし、学校で死なれても後々の対応が面倒になるってもんだ。ちなみに後者の方が学校側の8割の本音だろう。 だがしかし、いつごろからなのかは分からないが、幸運なことにうちの学校の屋上の鍵は壊れていた。躾のなっていない不良に壊されたのか、それともたまたま壊れたのか。それは分からないが、とにかく生徒の俺たちにとっては嬉しいことに限りない。 先生たちは知らないのか、ただ黙認しているのか、きっと喫煙者である教師は黙認して時間を見付けては人目を忍び、喫煙を楽しんでいるのだろう。 いち教師としてそれはどうなんだと思うが、所詮教師も人間で。ニコチン中毒には逆らえないのだから仕方がない。 だから俺は、扉を開けた先に教師がいたのならば見なかったふりをして早々に立ち去ろうと思っていた。または不良の輩がいたら、気付かれないうちに立ち去ろうと思っていた。 まぁ、おもいっきり扉を開けたことでその豪快な音に気付かれないわけもないが。 一般生徒ならば一部スペースを借りよう。一般生徒にまで遠慮してしまうほどあいにく謙虚な性格は持ち合わせていない。 しかし、俺が予測していたその3つの条件のどれにも当てはまらない人間が、そこにはいたのだ。 「…………」 「…………」 特に驚いた様子もなくこちらを見つめる視線と目が合ってしまえば、俺は気まずそうに目線をそらす他ない。なんとかその人物を視界の外に追いやり、なにげなく屋上を見渡せば興味が引かれるものがあるわけもない、殺風景な景色が目に映る。憎らしい程に日はさんさんとしていて、空には澄みきった青が広がっていた。 思った以上に風がよく通るそこは、日が当たっているにも関わらずわりと涼しい。 だが残念なことに、俺は早々ここを立ち去らねばいけない状況下にあった。 三年五組、出席番号一番。相川優斗。 涼しい屋上をひとり占領していたのは、その人だった。 一般生徒のくくりには入らず、当然生徒なのだから遠慮すべき教師側にも入らず。だからといって、不良だと言ってしまうには素行が良すぎる人物。頭も良く、容姿も良く、わりと陽気なその性格は男女問わず人気がある。もちろん教師にだって評判は抜群だ。 それなのになぜ、と首を傾げてしまうのは仕方ないことだろう。 だってその人は、カッターをその手首に当て、いわゆるリストカットをしていたのだから。 「…お邪魔でした?」 「いんや、全然」 「それは良かった」 「なに?俺に用?」 「いえいえ、俺が用があるのは屋上です」 「あ、そう。どうぞ、いらっしゃいませ?」 まるで自分の家に招き入れるような言葉に苦笑いを漏らしつつも、せっかく了承を得たのだからその言葉に甘えさせてもらい俺は後ろ手で扉を閉めた。 一歩踏み込んだのと、扉の手前で立っているのとでは涼しさが桁違いだ。風が強いらしく、バタバタと上着が風になびき、髪の毛がボサボサになってしまう。顔にかかってしまった髪の毛を手で横に押さえつつ、足を進めフェンスの前に立った。 カシャン、と音を立ててその金網に指を引っ掛ける。ひんやりとした温度に、気持ち良さを感じそのまま頬を引っ付けた。 やっぱり屋上を選んでよかったと、自分を誉める。もし裏庭を選んでいたら今頃不良たちに絡まれていたかもしれないし、諦めて家に帰っていても熱さは変わらなかった。何にしても、暑い季節を快適に過ごせる場所を見付けることができたのはかなりのプラスだ。 リストカットをしていた先輩を見つけてしまったことをマイナスとしても、まだ余裕はある。 「…………」 風を感じ、涼しさに気を良くしていたその時だった。 背後の方からチキキ、ととてもいい音とは言えないものが聞こえ、まさかと思いながら振り返る。案の定そこには再びカッターナイフを手に手首を見つめ、今にも新たな紅い線をつくろうとしている先輩の姿があった。 こういう時どうすればいいのかと混乱し慌てふためく自分と、さっき初めて会ったばかりなのだから気にしなくてもいいかと無関心になっている自分が、心内にいる。だがしかし、さすがに目の前でリスカをしようとしている人を何もしないで放っておくのも人間としてどうかと俺も思うわけで。だからといって、それをやめさせられるような巧い言葉をとっさに思い付けるほど俺は言葉巧みではなくて。仕方なくじっとその光景を見ながらなんて言おうか考えていると、ついにその刃が目の前で手首に当てられた。 自分に傷が出来るわけでもないのに、さらに言えばまだ力も込められてもいない手を見ているだけなのに、その痛々しい光景を見ているだけで眉間に皺が寄る。自然と顔が歪み、表情が嫌悪を示す。 力を込め、刃を引いた。それほど力は入っていなかったのか、当然手首が落ちるなんてことはなく、勢いよく血が噴射するなんてこともなく、紅い雫が手首を、腕を伝った。 なぜ自傷するのか。 そんなもの、その立場にならないと分からないだろうし、きっと理由もそれぞれだ。だからそんなことは気にならない。 でも自らに傷をつけるという行為に、人は痛みを感じないのか。それだけは興味があった。 手首に向けていた目を、先輩の顔に向ける。じっと見つめなくとも、その顔が笑顔だということはすぐに分かった。 笑顔で、傷付いた手首を見つめる。肘近くまで流れてきた血を、まるで溶けたアイスを舌ですくうかのように舐める。ついには傷口に口をつけ、ついばむように血を吸い始める。 まるで、魅せられたかのようにその光景から目を離せなかった。 「…ん?」 あまりに食い入るように見てしまっていたせいか、俺の視線に気付いた先輩が手首から口を離すことなく目だけをこちらに向けた。不意打ちのように交わってしまった視線に後ろめたさを感じながらも、決してその視線をそらすことはなかった。その異常でしかない絵を少しでも長く見ていたかった。 「…気になる?」 「はい」 「不愉快?」 「いいえ」 「ははっ、即答。変なやつだな、お前」 「リスカしながら笑ってる先輩に変とか言われたくないです」 「それ言うなら目の前でリスカしてるの見て何も言わないお前も変だよ」 大抵のやつなら止めろだの、なにか悩みがあるなら自分が力になるから打ち明けてくれだの言ってくるのに。 そう言って、先輩はようやく腕から口を離した。名残惜しそうに強く血を吸いあげてから。 「あれなんだろうな。自分の優しさに酔ってんのかね。俺の目には偽善にしか見えないっつーの」 「ひねくれてますね」 「うっせーよ」 ははは、と笑った。 今更だが、この先輩はよく笑う。とても先程まで流れていた血を舐めていた異常者とは思えないほど、明るい純粋な笑みで。 どちらが本当の先輩なのだろう。 艶のある異常者か、学校でも人気なおちょうし者か。 「どうして、リスカするんですか?」 そんなことを考えていると、次の瞬間には口が勝手にそんなことを口ばしっていた。理由なんか興味ないのに、興味ないことを聞いたところでそれはろくな知識としてしか蓄積されないのに。 それでも無意識に聞いてしまったのはきっと、この先輩なら何か、俺が興味持ちそうな返答をしてくれると期待していたからだ。一言二言交した言葉と、彼の行動を見れば彼は異常者でしかない。だがその異常者も、俺にとってはおもしろいものの他ないのだ。 「お前も、あいつらと同じ系統?」 だが、そう尋ねた瞬間に彼の目付きはがらりと変わった。人受けの良さそうな笑みを浮かべていた表情が、険しいものになり鋭い目付きがこちらへと向けられる。睨まれた理由が分からなくて今までの会話を思い返してみると、わりと簡単に答えは導きだせた。 「俺、先輩の助けになりたくて…」 さらに鋭くなる目付き。 俺の考えは当たっていたらしい。 「なんて、言うと思いますか、俺が。先輩がどうなろうと俺になんの関係もないのになんでわざわざ悩み相談なんかに乗らなきゃいけないんですか。冗談じゃないです」 「……は」 「俺はただ、先輩ならおもしろい答えが聞けると思ったから聞いただけです。まさか誤解されて睨まれるとはさすがに思いませんでしたけど。とりあえず家庭の事情やらいじめやらが原因なそんなあり触れた理由じゃなくて、異常者が何を思ってその行為をするのか興味が沸いただけです」 先輩は、人を拒絶していた。 だが、全て人を拒絶しているわけではなく、自分を好きな人間が嫌いらしい。現に先輩自身に興味すら抱かなかった俺は先程まで普通に受け入れられていた。きっと上辺だけ好いてくるやつが嫌いなんだと、俺は思う。先輩かっこいいし、その外見だけで寄って来そうな輩もいそうだから。 「異常って…普通本人目の前にして言う?」 「あぁ、すいません。なんか口滑っちゃって」 「謝ってないって、それ」 笑いながら言う先輩を見て、どうやら機嫌が直ったらしいことを知る。 そして普段人と話すことを良しとしない俺が、こんな初対面の、しかも先輩に軽々しく口をきけることに今更ながら少し驚いていた。 クラスメートと話すときでも、一歩引いて聞き手に回るのが俺のスタイルだ。自分から話題を提供するようなことは早々ないし、用がなければ軽く受け流し読書に没頭してしまうこともしばしば。 そんな俺が、こんなリストカットをしているような厄介な人物に話しかけるなんて…何か不思議な魅力を感じているのだろうか。この人に対して。 「悪かったな、睨んだりして」 「別に気にしてませんよ」 「そうか、んじゃあお詫びに俺がリスカしてる理由教えてやるよ」 「是非とも。でも家庭事情云々はいりません。長そうですし」 「いじめは?」 「先輩いじめられるような人じゃないでしょ」 そう言えば、苦笑いで返された。 相川優斗、という人物は悪い噂を持たない容姿端麗運動神経抜群ぷらす金持ちな出来すぎた先輩だと聞いていた。実際こうして面と向かって話すのは初めてだが、その話に嘘はないのだろうということは簡単に分かる。 神は二物を与えないと聞く。それは嘘だと身を持って知った。だが、人間誰しも何かしら欠陥がひとつはある。これは本当だと思った。 例えをあげるとするならば、俺の欠陥はこの無関心さだろう。人並みといっていいのかは分からないが、それなりの欲望はある。が、それに対して興味を示さない。欲しいものがあったとして、それを欲しいとは思うが手に入れようとしない。欲しいならば努力し、手に入れればいいものを、俺はその努力を嫌う。 相当な面倒臭がりだと言ってしまえばそこまでだが、つまり世間一般でいう普通のものには興味が沸かないというわけだ。 きっと、この異常なものや人外、狂気じみたものにばかり興味を示すのもまた欠陥なのだろう。 「分からないだろ?陰でいじめられてるかもしれない」 「そんな人が自分を好いているという人を邪険に出来るわけがない」 「人を信じられないだけかもしれないだろ」 「それならば先輩は俺をここへ受け入れたりはしなかった」 「……変なやつ」 「先輩に言われたくないです」 はたして、この人の欠陥部位に名前をつけるとするならばそれはどんなものだろうか。 「大して面白くもないぞ?大抵のやつは引くし」 「そういうのを期待してるのでご心配なく。ていうか、俺がその程度で引くと思いますか?」 「思わねぇ」 「失礼だ」 「自分で言ったんだろ」 クックッと笑うと喉仏が上下に動いた。変だけど面白いヤツだ、と不意に頭を撫でられる。 その行為は完璧俺を子供扱いしているわけだけれど、相手が一応先輩だからか不思議と皮肉には感じなかった。 やんわりとその手を払い、笑みを浮かべ空を見上げた先輩の横顔を盗み見る。その表情は穏やかだ。 「俺がリスカする理由は…血が飲みたいから」 なのに、その穏やかな表情をしている人が吐くとは思えない言葉を言うもんだから、俺は少し驚いた。でもやはり、少し驚いただけで引くなんてことはなかった。 むしろその言葉の続きを待ち望んでいるらしい俺の心臓はどくどくと激しい波を打ち始める。 「時々、血が無償に飲みたくなって…最初は興味本位だったな。一回、見たことがあるんだ。知り合いがリスカしてるとこ」 それを思いだし、見様見真似でカッターナイフを握った。最初は恐くて、痛いだろうなって思ったら手に力が入らなくて、うっすらと血が滲んだだけ。 滲んだ血を見て、舐めたくなって舐めたら、いつからかやめらんなくなった。 そう語る先輩は慈しむような目で手首を見つめる。腕に数本あるかさぶたの中に、先程つけられた真新しい傷がふたつほどあった。 右利きなのか、左の腕だけに集中してつけられた傷。それほど焼けてない白い腕に、より一層それは映える。 「で?聞いた感想は?予想より面白くなかった?」 傷を撫でながら顔だけをこちらに向けて感想を求める先輩をまじまじと見つめる。それを何か勘違いしてしまったのか、一瞬その表情は傷付いたものに見えた。 手を伸ばし、先輩の頬に触れる。驚いた先輩が、少し身を引く。それを逃がさず、俺は先輩の口に指を突っ込み、頬を横に引っ張った。 「な…っ!?」 「…ないですよね、やっぱり」 確認を終え、驚きを隠せない先輩を放してやるとその目と口が訴えてきた。 「なにすんだよいきなりっ!口に何かあるかっ」 「いやー、牙探してたんですよ、牙」 「人間にあるかそんなもんっ」 「血が飲みたくなるって言ったから先輩実は吸血鬼なんじゃないかと思って」 そうだったら、どんなに楽しいことだっただろう。 だが残念。先輩の口には牙どころかとがった犬歯すら見当たらなかった。 「先輩の前世って、吸血鬼なんじゃないですか?」 「吸血…鬼?」 「こう…なんか自然と昔の性がそのまま現代に現れて血が飲みたくなってしまい、自分のを飲んでしまったみたいな」 「みたいなって…」 呆れたように笑われてしまった。 どうやらようやく落ち着きを取り戻したようで、固かった体から力が抜かれそのままカシャンとフェンスに体を預ける。 その時ちらりと見えた紅い傷。 俺は気になっていたことを尋ねてみた。 「自傷って痛くないんですか?」 「いてぇ」 「…痛い思いしてまで飲みたいんですか」 「もう慣れた」 なるほど確かに、痛いのに笑いながら自傷していた先輩はマゾということになってしまう。慣れたから、そうなのか。再び傷に目配せすれば、かさぶたの他にうっすら治りかけの傷がいくつかあった。 「血って、そんなにおいしいですか?」 俺はそうは思わない。 鉄のような味が口に広がるあの感覚は、どうも好きではない。甘くもないし苦いわけでもないけれど、本来人間という生き物は好んで生き血をすするような生物ではないのだから俺の方がまともな感性なのだろう。 「…うまいうまくないは考えたことねぇな。飲みたいから飲む。それだけ」 「自分のと他人のどっちがうまいですか?」 「自分のしか飲んだことねぇよ。つかあったらあったで、ちょっとあぶねぇじゃねぇか」 「ははっ、今更」 「…むかつくな、その笑い」 「じゃあ飲んでみます?」 「…………は?」 呆気に取られた顔で俺を見上げる先輩の表情は傑作だった。これが噂の相川優斗だと思うと、余計笑いがこみあげてくる。 正直、自分でも何言ってんだ、と思う。 でも是非その感想を聴いてみたいという欲望には勝てなかったみたいだ。 「血、提供しますよ?」 「…………」 しかし問題は、どうやって血を提供するかだ。 痛いのは嫌いだ。いくら感想を聴きたいからと言って自らそのカッターナイフで傷をつけるのはご遠慮したい。 「…お前、なに言ってんだ」 「言うの忘れてましたけど、異常さなら俺先輩に負けてませんよ」 「…らしいな。つかどうやって提供してくれんだよ。お前も手首切る?」 「いや、それはちょっと。今俺もそれを考えてたんです」 腕に限らずカッターで切るのは嫌だ。だからといって殴って血を出すのも嫌だった。つまりは痛いことは嫌なのだ。 残念ながら俺はマゾ体質ではないし、むしろSっ気の方が強い。 「贅沢言うなら傷が見えないところがいいですね」 「注文が多いやつだな」 「ちょっとしたかすり傷でも心配する厄介な友人たちがいるんです」 見えるところに傷があったならば、明日俺はどれだけ尋問されるだろうか。例え階段で転んだだけだとしても、それがどこの階段で何段目でどの部分かまで詳しく聞かれる。最悪、その場所まで連れていかなくてはならなくなる。 もしもその傷が誰かのせいだとしたならば、それを知られた場合決まって次の日学校に来ることはない。 過保護すぎるのだ、どいつもこいつも。 「幸せもんだな、お前」 「そうですね。でもそれ言うなら先輩もですよ」 「はっ、どこが」 「まぁ先輩の場合幸せから逃げてるようなもんですけどね。拒絶せずに普通に接すれば本当の意味での友人はたくさんできると思いますけど」 「…………」 黙りこんでしまった先輩は、軽くうなだれている。 俺の言葉の意味を、理解できなかったんだろうか。しかしこれ以上簡単かつ具体的に言えと言われても困る。 言うは易く行うは難しという有名なことわざのように、頭では分かっていても実行することはやはり難しいのか。 そうこう考えていると、視線を感じ先輩を見る。いつの間に顔をあげていたのか、じっと俺の顔を見つめていた。やっぱり、その表情も文句のつけようがないほど、かっこよかった。 「見えないとこで、カッター使わなきゃいいんだな?」 「…痛くしないってのは」 「無理だ」 「ですよねー」 さすがにそれは出来ない相談らしかった。痛い思いをせずに血を流せる方法があるのなら、俺はリスカなんかやってないと言われる始末。 確かにそうだと神妙に頷き、一体どんな方法を思い付いたのかと尋ねてみると、にっこり笑顔で手招きをされた。耳打ちする仕草を見せたから素直に耳を寄せる。 「違うって。こっち」 「っ!?」 ぐいっと頬に両手を当てられそのまま引っ張られた。突然すぎるその行動のせいで、不安定だった俺の体制は当然のように崩れ落ちる。 …はずだった。 「んんっ!!」 俺を受け止めたのは先輩の唇で、そこへ触れたのは俺の唇。拒む間もなく舌が侵入してきたと思ったら、次の瞬間、ガリッと嫌な音と痛みを感じた。 離れようと試みても腰を力強い腕で押さえられては引くにも引けず、口には鉄のような味が広がる。最初、先輩のものかと思ったが、舌に感じる痛みからしてこの血の味は俺のものらしい。 そこでようやく、俺は俺の出した条件をクリアさせた先輩の血を出す方法というものに気付いた。 先輩の舌が傷に触れるたび痛みが走る。 唇が解放される頃には俺の息は絶え絶えで、酸欠のような感覚に頭がクラリと波を打つ。 「なっ…に、すんですか…っ、いきなり」 「血の提供をどうもありがとう」 「……どういたしまして」 ありがとうと言われてしまえば、文句は言えない。 提供すると提案したのは俺の方だし、方法をまかせてしまったのも俺だった。今更文句を言ったところでキスされた事実が消えるわけでもないし、言うだけ無駄だということだ。 「で、どっちがうまかったですか?」 「…少しは恥じらうとかしたらどーなの、お前」 「生憎、キスごときで恥ずかしがるようなタチじゃないので」 「ふーん…」 「で?どっち?」 つまらなさそうに相槌を打つ先輩に返答を求める。ここまでしたんだから、それくらい許されるだろう。 ここまでと言っても、キスだけだが。 「分かんねぇ」 「は?」 「もう一回したら分かるかも」 「…俺に惚れたら火傷するぜ」 「なに言ってんだ」 「なに言ってんだろう…」 いやでも、先輩こそなに言ってんだ状態じゃないか。なにも俺だけがおかしなことを口走っているわけじゃない。 いたたまれないほどの視線の強さに思わず溜め息が漏れる。 「…惚れてはねぇけど、ハマりそう」 そんな先輩の小さな呟きは、屋上を吹き抜けた風にかき消され、俺の耳に届くことはなかった。
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