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「はい、山内です。…はい。…わかりました。すぐに行きます」
通話を切ると彼女に向け「お父さん、帰り支度が出来たそうよ」と立つように促す。
ICUまでの道のりを共にしながら歩いていると、あと少しで家族と合流というところで彼女が歩みをやめた。
「――先生」
振り返ると彼女が「お父さんに会うのが怖い」と漏らした。
さっきまで一緒にいたのは生きていたお父さん。
これから会うのは死んでしまったお父さん。
同じ人でも後者を見たら「死」というものを受け入れざるを得ない。
彼女はきっとそれが怖いのだろう。
「今まで、たくさん支えてもらってたんだもんね。守ってもらっていたんだもんね。大黒柱を失ったっていう不安は、計り知れない事だと思う。――でも、あなたは私を恨むことも憎むことも出来ないって言ってくれた。立てるはずよ、一人で。……お父さんをお迎えに行こう」
今にも泣きそうな顔で唇をギュッと噛みしめた彼女が、再び歩みを始めた。
その迷いない足取りに、あぁ、きっとこの子は大丈夫だ。そう、思った。
霊安室でお線香を上げさせていただくと、ご家族は丁寧に挨拶をしてくれ、病院をあとにした。
「千佳先生、女の子キラーですね。彼女、お父さんの死が受け入れられなくて、待合室飛び出しちゃったんですよ。ご家族の説得にも応じなくて、しばらく放っておくってお兄さんが言ってたんですけど。まさか千佳先生と帰ってくるとは思わなかったです」
「そお? でもキラーって」
笑いながら言うと「あら、案外彼女の先生を頼り切った目、ハートマークでしたよ」と看護師さんがエレベーターのボタンを押しながら、からかうように言った。
私たちの仕事は命の現場と言われる病院が舞台だ。
悲しくても辛くても、次の瞬間には笑顔を見せなくてはいけない。
時計の針は朝の四時を指し示そうかという頃だった。
ピリピリと鳴るホットラインのPHSに、どうやら今日は寝かせては貰えないのだと、ため息をこらえながら通話を取った。
山内千佳。
三十歳、医師。
今日がこの病院で最後の勤務だ――。
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