空仏。

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 あるとき、天竺から正統に伝来した仏家の妙法を保任する大医道信という大禅師が来るというので、老翁は、山から村に降りて行った。果たして、道信大禅師に道端で遭遇した。  一見するに、大禅師は言った。  「私はあなたに、天竺正伝の仏法を授けたいくらいだが、そうするにはあなたは、あまりにも歳を取りすぎている。もし、私の存命中に、生まれ変って再び私の所に来るなら、私はあなたに正法眼蔵を賦与しよう」  老翁は、微笑んで、大禅師の黒目に映った僕自身の空虚な黒目を見詰めていた。  老翁は、仙人を生業としていて、山谷に松を植えて暮らしていた。松を植えて新しい生命を育むことで、仏の有様を整える意味が有るのだ。一切衆生悉有仏性とは言うが、やはり仏様にはありがたい有りようというものがあるのだ。  そこで、老翁はそのとき、いずれ生まれ変わるところの赤子についての質問を、道信大禅師にしてみた。  「赤子を川の深淵に捨てる周家の娘には、仏性は有るのか無いのか?」  大禅師は答えた。  「仏性は無い」  「しかし、一切衆生には悉有仏性という。何を以てか、ひとり周家の娘に仏性が無いというのか?」 大禅師は、ふと青空を見上げた。そして、流れる雲を指差して言うのだった。  「空はうつろだが、雲を流す。流れる雲は、風に運ばれる。風性は常住して、巡らないところはない」  老翁は、大禅師が言おうとしていることが、よく判らなかったので、さらに一問投じた。  「風性とはこれ仏性の比喩なるや如何?」  大禅師は、それでもしっかり返答した。  「言葉が別なら、内容も別だ」  ますますもって、老翁は大禅師の言わんとすることが判らなかった。  質問を継ごうとしたが、老翁にはどう質問すればいいのか、その時に想起できなかった。その沈黙をしかと見据えてから、道信大禅師は僕に合掌目礼し、老翁の前から去っていった。
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