空仏。

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空仏。

僕は、生家から少し離れたところにある里道に沿って流れる小川の岸に腰掛けてひとり、春光に煌く水面の波波を凝視していた。その波の畝の深奥を見詰めると、その影の部分がこころの中の禁忌的記憶を呼び覚ましそうで怯えたが、それでも僕は、その神秘的で魔術的な魅力に抗うこともできずに、食い入るようにただ水面の波動を観察していた。  水は、僕にとって恐怖の対象である。その前に座るだけで、水は今にも堤を溢れ出して僕を呑み込んでしまうのではないかと、強迫的な想念が頭にこびりついて離れなかった。そして、その強迫的想念は、水面の下の遠い記憶を呼び覚ましてしまった。  ものに憑かれたかのような狂気じみた怨念の表情で、橋の上から僕を抛り捨てる女。翡翠色の流れの深みに一旦沈み、痛き寒冷と苦しい息合のなかに再び浮び上がり、清流の中を矢のように流れ行く僕。そして、その激烈な感覚の中に、僕は次第に意識が遠退いていった。  気付いたときには、老翁に河原に引き上げられて、蘇生術を施されていた。  「神よ、どうか赤子を救い給え」  老翁は、どこからか材料を集めてきて、祭壇を作って神に祈った。すると、川の神が雲に載って降りてきた。  「汝は、何としてかこの赤子を救おうとする?」  老翁は言った。  「彼は、尊い仏性を持っている、まだ死ぬべき時ではありません」  川の神は告げた。  「では、代わりに汝の命を召すぞ」  そう言うと、川の神は雷を老翁の頭天に穿ち、雲に載って帰っていった。老翁は、僕の眼の前で息絶えてしまった。その代替えに、僕の骸に老翁の透脱した魂が籠った。僕の頭に、老翁一生分の記憶が、呼び覚まされた。  僕は、老翁の生まれ変わりだった。老翁は、栽松道者と言って、仙人の術を明らめた人だった。この辺りの黄梅山に住んで、百五十年ほど生きていた。
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