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「先生、こんにちは。お招きいただきありがとうございます」  驚かせないよう、声のトーンを落として呼び掛けると、先生は首からグラスホルダーで吊るしていた眼鏡を掛けて、こちらを見上げる。 「どうも、こんにちは。ひとまずお掛けなさい」  着席を促されたので、先生の真向かいの席に腰を下ろせば、椅子が微かに軋みながら私の体を危なげなく受け止めた。  座面に施された別珍のクッションは、程よい硬さのお陰で安定感抜群だ。この椅子なら何時間座ろうが、腰やお尻が痛くならずに済むのだろう。  良い椅子に座っているせいか、自然と背筋が伸び、気持ちも引き締まる。 「随分とご機嫌なようですね」  私が落ち着くを待って、先生が涼しい顔で告げた。 「私、ニヤけていましたか?」  思わず口許を手で覆って尋ねると、先生が無言で頷く。  緩みきった情けない顔を人様に見られていたと知り、顔から火が出る。 (うわあ、恥ずかしい。浮かれているのがそのまま顔に出るなんて、いかにも子供っぽい)  喫茶店にやっと入れた喜びと、店内の雰囲気のあまりの素晴らしさに感動して、気分が高揚するのは仕方がない。  ただ、公共の場で、思ったこと感じたことをそのまま顔に出すのはいかがなものだろう。 (このお店にいる他の人と比べると、私って、かなり悪目立ちしているよね)  今の自分と近い存在を挙げるならば、上京したてで浮かれるお上りさんといったところか。  そう思うと、ひどく居た堪れない。 (あと、アレにも似てる)  思い浮かぶイメージは、母親の化粧品をこっそり借りて、自らの唇に紅をさす小さな子供。  大人のようになれたとはしゃぐが、所詮はおままごとに過ぎず、口紅もまったく似合っていない。  今の自分は、まさに、その小さな子供だ。  大人になったら行くと決めていた場所に思いがけず招かれ、店内に足を踏み入れたことにすっかり舞い上がってしまった。  爪先立ちで背伸びをして、大人になった振りをするけれど、結局、どう足掻いたって子供は子供のままなのだ。心構えひとつで、一瞬で大人になれる筈がない。  だから場にそぐわない浮かれ方をして、恥を掻いてしまう。  そう考えると、途端に、自分が情けなく思えた。 (でも……でも、しょげたままじゃ駄目だ)  いつの間にか俯いていた顔を上げて、先生を見る。 (お店に入れたのも、ここにこうしていられるのも、本当に嬉しい。これは先生のお陰なんだ)  先生が外を歩く私に気付いて、手招きしてくれなければ、喫茶店に入りたいという私の願いは、当分先まで叶わなかっただろう。 (だから、これからはちゃんとしよう。しっかりしなきゃ。私と一緒にいる先生に、恥を欠かせないように)
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