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意識は揺蕩う。ふわふわとした視界が揺れて、水面に浮かび上がるように眠りから覚めた。朧気な視界に焚き火の炎がゆらゆらと揺れている。
(ああ、そうか……あのまま寝ちゃったんだ)
久方ぶりの満腹感、そしてその後やって来た眠気には修行僧だって到底抗うことが出来ないだろう。あれから、結局二頭とも食べつ尽くしてしまったのである。いくら空腹でも食べ過ぎかもしれないが、それ以上の満足感に満ちていた。
まだ寝惚けながらももそもそと起き上がると、夢の内容を思い出す。それはつい先日まで日本で生きてきた記憶だったけれど、そこには大きく欠け落ちた物があった。
「そうだよ、名前…………。忘れてたなんてそんな馬鹿なことって……………」
呆れるように自分に苦笑する。どんな阿呆でも自分の名前を忘れる奴は居ないだろうと笑い飛ばそうとして、しかし、どんなに思い出そうとしても全く思い出せないので自分はその阿呆より酷いのかもしれないと肩を落とした。
汐沢。
それが、自分の苗字でまず同じ苗字の人に会ったことも無いし、珍しい苗字故にあまりいい記憶も無い。何かと失敗の多いので叱られる事も少なくなかった。その為一度でも失敗すれば名前で覚えられてしまい、目をつけられる。
中学時代も変な噂が流れた事があった。その噂の中に下の名前は出ていなかったけれど、それが誰かあっさりと特定されてしまうのである。噂自体が事実無根だったが周りにそんな事は関係なかった。ただ騒ぎたいだけなのだから。
『あれがあの汐沢さん?』
『大人しそうなのに。人は裏で何やってるか分かんないね』
耳に響く嘲笑。蔑んだ視線。暗い記憶が湧き出るように蘇る。心を黒く染めるように記憶の断片は止まることを知らなかった。
『ちげえだろうがよ!! っち。本当に使えないな 』
何処か他人事のように自身の記憶を眺める。巡りゆく季節の変わり目を見るように、テレビのチャンネルが切り替わるように視界もパッパッと変わっていく。
『媚び売ってんなよ。……気持ち悪い。本当に目障り』
吐き捨てるように絞り出された言葉。これはいつの記憶だったろうか。確か、姉の機嫌がすこぶる悪かった時だった。機嫌が悪いと周りに当たる人だったので、この時も理不尽に怒られた時だったと思う。こういう時の姉は何をしても何を言っても烈火の如く怒る。だから、刺激しないように、ただ存在を消すように布団に潜り込んでやり過ごしていた。
何時だって家に居場所なんて存在しなくて。名前で呼ばれることも……。
社会復帰しても、結局周りを取り巻く環境は変わらなかった。否、変わるどころか社会の中で自分がいかに無能なのか知ることになる。
(仕事……いきなり抜けたら大変だろうな)
居なくなった後の職場は少し気にはなるけれど……、どうとでもなるだろう。代わりはいくらでも居る。元々人手が無くて、ギリギリの人数で回していた会社だった。一人抜けたとなると新しく人が入るまでは地獄だろうが。
(私でも惜しんでくれ……はしないかなやっぱ)
忙しい時くらい思い出してくれないものかと思うものの、直ぐにそれも無いかと自身の考えを否定する。自分が居るよりは新しく仕事の出来る人間を入れた方が、効率が良いに決まっている。それに、自分を毛嫌いしていた先輩は泣いて喜ぶかもしれない。
家にも、職場にも行く場所は無い。ならば……待つ人間など何処にも居ないのではないだろうか?名前を思い出したところで、なんになるのだろう。もう呼ばれることの無い名前を……。
「……どうせもう、異世界に居るなら名前ぐらいどうでも良いか」
元々名前に関して執着らしい執着も無かった。必要もなかった。だから、あっさりと思考を放棄した。
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