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それは昔、近所に住んでいたオネェさん、モーゴン・メリーから読み聞かされた小説に出てくる街の名前を、今咄嗟に口にしただけだったのだが、まさかそんな街が実在するなど、ましてやそれが私小説であったなど、貧乏なタムが知る由もなかった。
しかし驚いたのはその一瞬だけだった。
世間知らずな王子様から、下々の暮らしが一体どういったものなのか、興味深げに目を爛々と輝かせて聞かれた時には、タムの顔がまたうっとりとした表情へと変わった──。
こうなるとタムの空想は留まることを知らない。
身振り手振りをまじえ、自身の生い立ちを騙りはじめた。
逃亡中の黒人奴隷と一緒に筏で河を下った話や、同級生に髪の色をからかわれ、授業中に石盤で頭をカチ割った話。
母親からニンジンにそっくりだといって、あだ名でしか呼んでもらえず、兄や姉と差別されて育った生い立ちなどを、タムは実に楽しげに騙って聞かせた。
王子様はその話を聞いている間、一言も口を挟まず耳を傾けた。
タムが、長靴をはいた犬を飼っている話をした時には、身を乗り出して聞き入るほどであった。
「あ、そ、ふーん。フリーダムなんだねぇー。 ハァ────……」
「何を考えてらっしゃるの?」
内心ドキドキのタムである。
だが、次に発せられた王子様の言葉に、タムは思わず五臓六腑が口から飛び出てしまうんじゃないとというくらい、驚いた。
まさに爆弾発言である。
「一日でもいいから、私もそんな生活をしてみたいよ……」
なんの苦労も知らずに育った、温室育ちならではの発想だ。
──と、大抵の”庶民”はそう考えたに違いない。
事実、王子様は、畑仕事や洗い物、馬の世話に至るまで、それどころか自分の食べ終わった食器すら片付けたことはなく、殆どのことは執事や侍女など”お付きの者”がやってくれる。
だが、タムの目には、この王子様の──────…………。
「とんでもない! こちらこそ、王子様。一日でもいいから、王子様のように、綺麗な洋服を着て、こーんな、大きなお城に住んでみたいのです」
言った途端。それは少し言いすぎたと、タムは恥ずかしげに目をしばたたせた。
「それなら」
「えっ?」
王子様の目は真剣そのもの。
この話の流れから、次に発せられる言葉を、タムは期待せずにはいられなかった。
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