第4章 上洛再び

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 景虎は5月1日には正親町天皇に拝謁し、8月下旬まで都に滞在し、そのあと堺まで足を運んでいる。景虎が何故堺までいったのか。当時の自由経済都市『堺』を見て、彼なりの経済感覚に刺激を与えたであろう。また、景虎は都に滞在中、将軍義輝より鉄砲と「鉄放薬之方並調合次第」という秘伝書を授けられている。毘沙門天たる景虎にとって鉄砲は最強の武器となると閃いたであろう。その景虎は堺の経済と鉄砲の製造を見て、早速購入する意志を示したに違いない。 秋の声を聞く頃、景虎は京洛郊外に留めておいた軍勢と合流し。春日山城への帰途についた。毘沙門天が都にある間は、将軍家に何事もなく短い安穏な月日が過ぎた。  帰国した10月28日、越後国諸将は太刀等を贈って上洛が成就したことを祝賀した。  その名簿と目録が「侍衆御太刀之次第」として残されている。 「直太刀之衆」「披露太刀之衆」「御馬廻年寄分之衆」に区別されている。 「直太刀之衆」とは、越ノ十郎殿(長尾景信)、桃井殿(有馬助)、三本寺殿(定長)の三名を指し、上杉一門又は一門に準ずる家柄である。それぞれ金覆輪を贈っている。「披露太刀之衆」は中条藤資、本庄繁長、同清七郎、石川重次、色部長真、千坂景親、長尾政景、斎藤朝信、毛利弥九郎、長尾藤景、柿崎景家、びわ島弥七郎、長尾源五郎、新発田長敦、甘糟長重等国衆が記されている。「御馬廻年寄分之衆」は若林、山村、諏訪等八人の名前がある。  11月13日には、信濃より村上義清、高梨政頼からの使者が祝詞を述べ、永禄3年3月15日には佐竹殿より太刀と金覆輪が贈られ、八カ国の衆として和田、三浦、宇都宮、結城など三十余名が連ねている。 関東諸将にとって景虎は、敵対すれば完負までに叩かれ、味方とすれば最も頼れる存在の武将であった。しかし、彼らにとって、近隣に北条や武田が存在する以上、景虎ばかりに目を向けてはいられなかった。それゆえ、彼らのとった行動は、景虎来たらば景虎に、北条来たれば北条になびくしか生き残る道は考えられなかった。それがまた景虎にとっては癪にさわる道義であった。
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