第1話 「落書きの秘密」

11/30
前へ
/66ページ
次へ
     2 「バンビちゃん、患者さんにお茶淹れてあげて」  広陵台総合医療センターの精神科に勤務して一週間が過ぎた。誉は仕事に慣れるのに精一杯で男に尻を揉まれても一々、反応しなくなった。たかが尻だ。というか、反応していたら仕事にならない。看護師は交代勤務で常に一名しかいなかった。そこに龍門の作為を感じたが疑問を持っても仕方がない。誉は仕事に集中した。 「バンビちゃーん。紅茶にレモンつけてあげて。あ、砂糖はいらないって」 「わ、分かりました」  誉の苗字が鹿野だからか龍門は誉の事をバンビちゃんと呼ぶ。最初の日にやめてくれと懇願したら、エロジカとエロバンビどっちがいいと訊かれ、結局、バンビちゃんに落ち着いた。呼び名などどうでもいい。明日にでも転科してやる。  誉は患者に紅茶を出した。五十代ぐらいの気の弱そうな男性だ。誉がどうぞと言うと男は軽く会釈した。  診察室を出て次の患者の問診票を電子カルテの問診欄に記入する。龍門は一人一人の患者に時間を掛けて接するため、内科の外来のように目まぐるしく患者が出たり入ったりはしない。その分、入力には時間を掛ける。患者にお茶を出すのも龍門流のもてなしのようで、誉はコーヒーと紅茶を淹れるのがこの一週間ですっかり上手くなっていた。  ――いっそのこと、バリスタにでも転職するかな。  乾いた笑い声が洩れる。本来であればICUで患者の面倒を看たり、あるいはオペ室勤務の看護師としてカッコよくドクターに器械出しをしているはずだった。元は医療機器メーカーの営業マンだったのだ。医療器具の知識は他の新人看護師よりはある。それなのに――。 「バンビちゃーん」  龍門の声が聞こえる。返事をする気力もなかった。
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

611人が本棚に入れています
本棚に追加