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「ちょっと、誉。時間、大丈夫なの?」
鹿野誉は朝食を終えたダイニングで母親の急かす声を聞いていた。大きな窓から春の温かな陽光が射し込んでいる。ベーコンが焦げる香ばしい匂いとコーヒーのふくよかな香りが広がる穏やかな朝だった。
「大丈夫。バスの時間はちゃんと調べてあるから」
誉は軽く頷いて見せると、リビングの隣にある和室へ向かった。仏壇の前に座って手を合わせる。仏壇には四年前、わずか二十一歳で亡くなった妹の遺影が置かれていた。小さな枠の中の妹は笑顔のままだった。
――遥、ありがとうな。兄ちゃん、ちゃんと頑張るから。
遺影の傍に白猫のストラップが置いてある。妹は猫が大好きだった。あの日もスマートフォンにこのストラップをつけていたのだ。フェルトで出来た猫の顔半分は妹の血で汚れて黒くなっている。誉はそのストラップをジャケットの胸ポケットに仕舞った。
――よし、なんかやる気出てきた。
心の中で呟いてゆっくりと立ち上がった。
「あんな事があったからって、あなたが看護師になる事ないのに……」
「母さん、まだそれ言う?」
「そうだけど……」
母親は誉の決意をよく思っていなかった。けれど、それももう関係ない。今日から希望していた病院での勤務がスタートする。誉の胸は高鳴っていた。
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