七十六番の彼

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 アールグレイティーを一口だけ飲むと、七十六番のたばこに火を付けいつもと同じように吸わずにふかした。たばこを一本ふかし終えると、頬杖(ほおづえ)をつきながら窓の外の駅に入っていく人と、駅から出てくる人の交差をただぼんやりと眺めていた。 「すいません、追加でチョコバナナパフェを一つください」  私の右隣に座る男性客が店員さんにチョコバナナパフェを注文した。  どこかで聞いた声。男性客の声は耳触りが良く、私の鼓膜に甘く優しく響いた。  まさかね……。  そう思いつつも、私は頬杖(ほおづえ)をついたままゆっくりと右隣の男性客の方に視線を向けた。  すると、私の視線の先には漫画雑誌を読みながら笑みを浮かべている彼が座っていた。  数秒間、私は彼の顔をじっと見つめてしまった。  私は視線を元に戻すと彼に話しかけるきっかけを考えた。  いつもはカウンター越しにお決まりの接客応対をするだけ。こんなチャンス滅多にない! 話しかけなきゃ、話しかけなきゃ……。  彼と話したいと思っていたのにいざとなると何を話せばいいのかわからない。何も思いつかないまま時間だけが過ぎていく。  話しかけなきゃ、話しかけなきゃ……。 「お待たせしました。チョコバナナパフェです」 「あっ! 私も! 私にもチョコバナナパフェください!」 「は、はい。かしこまりました」  つい勢いで注文してしまった。大きな声だったのだろうか? 店内の視線が私に注がれる。 「す、すいません……」  私はまわりのお客さんに謝った。するとすぐに私に向けられていた視線は元の方向に戻っていった。私の右隣の、彼の視線を除いては……。  私はおそるおそる彼の方に顔を向けた。 「ここのチョコバナナパフェはかなり美味しいですよ。チョコレートソースが絶品なんです」  彼は穏やかな笑みを浮かべながら私に言った。 「そ、そうなんですか? それは楽しみ~」 「ブルーベリーパフェも美味しいですよ。食べたことがなければ今度食べてみるといいですよ」 「は、はい!」  彼との初めての会話らしい会話。うれしい! うれしい!  彼は私の返事を聞き終えると視線を自分の目の前に戻し、さっき届いたチョコバナナパフェを口に運びだした。  私はその姿をちらちらと横目で見ていた。  チョコバナナパフェを食べている彼は、はちみつを夢中になって舐めているクマのようで愛らしい。
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