一章

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 すでに兵士たちは散りはじめていた。その波にさからって、ハシェドがかけよってくる。 「ワレス隊長。大丈夫ですか? 頰から血が出ていますよ?」 「ああ……たいしたことはない」 「ひどいなあ。メイヒル小隊長。わざと傷つけようとしてましたよね」 「しッ。聞こえるぞ」  そばにまだギデオンとメイヒルがいる。  ワレスはたしなめた。  が、ふだん人のいいハシェドが、めずらしく憤慨(ふんがい)している。 「だって、あんなんでいいなら、おれだって——」 「まあいい。すんだことだ」 「そうですか? いくら試合に勝ちたいからって、あれはないですよ」  ハシェドが言うので、ワレスは笑った。  別にアイツは試合に勝ちたかったわけじゃないさ。  そのとき、ワレスは背後から呼びとめられた。 「ワレス小隊長」  ギデオンだ。 「なんですか? 中隊長殿」  ギデオンはふりかえったワレスを、吸いよせられるように見つめる。ワレスにかすかな痛みをあたえる、頰の傷を。 「今日の試合はまずまずだった」 「ありがとうございます」 「しかし、おまえは見たところ左利きだな? なぜ、左を使わない? 右もよく訓練されてはいるが、受け身になると、必ず型どおりになる。学校で教わる試合向きの剣さばきだ。実戦では一瞬の遅れが生死をわかつ。左を使え」  言いながら、なおもワレスの頰ばかり凝視する。  ワレスは薄気味悪くなった。黙って頭をさげる。  ギデオンは無意識のように、ワレスの頰に手を伸ばしかけた。そこで我に返り、去っていった。メイヒルがついていく。  二人の後ろ姿が小さくなるまで、ワレスは見送った。 「あいつ、血を見ると興奮するタチか。つくづくイヤな性分だ」  ハシェドがギデオンをどう思ってるのかは知らない。  ワレスと上官の軋轢(あつれき)を回避させるのも、下士官の役目とでも思ったのだろうか。とりなすように言った。 「でも、さすがですね。おれはぜんぜん気がつきもしませんでした。ワレス隊長、左利きなんですか?」  ワレスは返答につまる。 「まあな……」 「太刀筋でわかるなんて、やっぱり凄腕なんだな」 「おれの粗探しばっかりしてるからじゃないか?」  まったく、イヤなヤツだ。  人が隠してることを、さらりと見抜く。  だが、ワレスは文句をつけたくなるのを、ぐっとこらえる。それについてはあまり言及されたくない。  しかし、ハシェドはたずねてきた。 「なんで左を使われないんですか?」  あの日も、今日のように寒かった……。  ぼんやり考えながら、ワレスの口はしぜんに言いわけをする。 「学校では右持ちが普通だった」 「へえ。ほんとに学校に行っておられたんですね。どおりで、我々とは頭のできが違う。剣のかまえも、きちんと基礎があるとは感じていましたが」 「おれのは試合用だ。中隊長も言ってたろう。実力はおまえのほうが上だよ」 「おれのはケンカ殺法ですから。ああいう試合は苦手です。よければ今度、正攻法というやつをご指南ください」  ハシェドの疑いのない眼差しが痛い。  騎士学校で右を使うことが主流だったのはほんとだ。ワレスはそれに乗じて、左手を封印してきた。使えば、あのことを知られるような気がした。  あのとき、すでに、ワレスの手が人の血で汚れていたことを……。 (後悔はしてない。だが、人に知られるのは怖い。ハシェドにだけは知られたくない)  ワレスが砦に来て、まもないころ。周囲から孤立して苦しかったときに、つねにかたわらで励ましてくれたハシェド。  自分でも知らぬまに、そんなハシェドに片恋していた。  そっと、よこめでながめる。  ハシェドの甘く男らしいよこ顔。ブラゴールの血をひく、ハシェドの褐色の肌を。  視線を感じたのか、ハシェドもワレスをながめてきた。  あわてて目をそらす。  そのしぐさが自分でも不自然に思えて、頰が上気するのがわかる。
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