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代わり映えのしない教室は狭苦しくて、生温い空気が窓ガラスを濡らす。雨は静かに降り続いている。現実と夢の境界線で、ぬかるんだ校庭を見下ろしていると、ふと耳についたのは呼吸音。凛と響く。
「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね……」
読み上げられたのは、まっさらな現代文の教科書に連なる一行目。逆さにして読んだとしても少しもおもしろくない明朝体のそれらが、声によってまるで形を変えた。
少しずつ、少しずつ、海の底で酸素を失っていくように。気がつけば彼の声以外なにも聞こえないことに気がついて、千代田凪はようやく顔を上げた。
声の主は教壇に立っていた。教科書の前で揃えられた細い指先、銀色のメタルフレームで縁取られた眼鏡、眉間に寄せられた皺。そのどれもが彼の「几帳面さ」と「神経質さ」を明確に表している。声もその一つだった。
神谷蒼。凪の通う東一星大学附属高校にこの春から配属された教師だった。担当科目は現代文。新卒として着任した前の学校には、二年弱しか勤めておらず、ここ3年A組の副担任となった。
それらの情報は昨日行われた始業式でアナウンスされたが、1ミリたりとも覚えていなかった凪は、隣に座る真面目そうな同級生にわざわざ尋ねて聞き出した。
「今読み上げた、中島敦の山月記では漢語が多く用いられています。表現が簡潔で幅広く、しかも重層的な意味を持っているわけです」
決して巧みな授業ではない。その証拠に蒼の姿勢はこわばっているし、前髪を何度も頼りなくかきあげている。凪にとっては興味のない対象だった。
「では、これから一つずつ解説をしていきます」
この、鮮烈に透き通るような声を聞くまでは。
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