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言葉にならない呻き声をあげて転がり続ける犬養をみて、床にうずくまっていた井戸川は冷や汗を浮かべていた。犬養の石頭に打ち勝つなごみへの戦慄が表情を強張らせている。
火消のために駆け付けた申谷たちのまえで、炎は地面ごと消えうせてしまった。
「……彼女からは母親に似たものを感じるな」
「だろ? 女性のが頼りになるんだよ、うちって」
カウンターのなかでなりゆきを伺っている年配の女性所員に「ですもんね」と目配せすると、相手は顔のシワを深めてほほ笑むにとどめていた。
牛尾が妹に声をかける。いくつかの言葉をかわしたあと、彼女は肩で風を切るような堂々たる歩みでカウンターへと戻っていった。
床で背中をまるめていた井戸川がのろのろと頭をあげる。
両膝をついた体勢で、赤くなった額を抑えている。表情はあと引く痛みで歪んでいた。鈍い動作であたりを見まわして、犬養の姿を探している。
犬養は倒れたソファの影にいた。もんどりうち続けた末、片足をソファにあげて仰向けに倒れている。両手を広げて大の字になっていた。
そんな犬養にむけて、井戸川は口を開こうとした。
だが、言葉が喉に引っかかったように声にはならない。やがて視線を床に落とし唇を閉じてしまった。出てこなかった台詞が胸に重く落ちているのか表情は曇っている。
申谷は距離を置いてその様子を見ていた。
困惑、焦燥、プライド。井戸川のうちで燻るものが可視できそうだった。複数の感情がさまざまな色や粘度で絡み合っている。犬養にかけようとした言葉は、そういうものによって口から出て来るまえに胸の底に引き戻されてしまう。井戸川は強張った表情で沈黙を続けている。
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