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部屋を出て、階段を下っていく。 四階にさしかかったところで、所長室に面した通路に牛尾の姿があった。スマホを肩に挟んでやりとりをしながら、手元のタブレットを操作している。そばには二人の所員が緊張した面持ちで立っていた。 通路を行きかうほかの所員たちの足取りは慌ただしくなっている。 申谷に気が付いた牛尾は、スマホとタブレットを所員に押し付けると、 「申谷くん。ちょっと。一瞬、一瞬」 足早にやって来た。 「正念場なのはわかってる。多少の無理も、しかたない無茶もあると思う。骨折とか、ちょっと深めの切り傷ぐらいまでなら良いよ。まぁ場所にもよるけど。うちの掛かりつけの病院の医師は腕だけはバツグンにいいからね。だけど、くれぐれも気をつけて」 黒縁眼鏡越しの牛尾の目元には疲労が浮かんでいる。 だが、向けられた眼差しには力強いものがあった。 「ちゃんと帰って来るんだぞ」 その言葉は申谷のなかに飛び込んできた。 波紋が滑るように身体中を広がっていく。打ち寄せたものが心を揺らす。 胸を揺さぶるものの正体がわからないまま立ち尽くした。 帰る場所も、居場所をくれた者も、仲間や恩とともに捨ててきた。振り返ることを戒め、二度と向かい合うこともないと、これまで求めることもしなかった。 はるか遠くにあるはずのものがすぐそばにあることを牛尾の言葉が教えてくれた。 驚きが胸を揺らしたあと、柔らかな温かいものが湧きあがる。 よく晴れた春の日差しを思わせるそれは、深く底のほうで凍りついていた大切な気持ちを解きほぐしていくようだった。 溶けだしたものが全身を巡る。滞っていたものが押し流され、身体と心が少しだけ軽くなった気がした。 久しく忘れていた安堵感を噛みしめながら、姿勢を正して頭を下げる。 背中が見えるほど低頭する申谷に、牛尾は快活な笑顔を見せた。
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