それでも僕は手放せない

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 知らないなんて、嘘だった。祥太は、あの工場でなにが作られているか知っている。でも、そのことを美夏に伝えることなんて、できなかった。目の前にある彼女の笑顔が再び失われるのが怖かった。  一年半前、彼女は笑顔を失った。心がなにも感じなくなった。喜びも、悲しみも、ありとあらゆる感情を失い、まるで人形のようになった。それは突然現れた病のせいで、原因も、治す方法もわからない。心のない彼女を前に、祥太も心を失いかけた。  そんな時、ある薬が開発された。その薬を飲めば、症状を抑え、再び笑顔を取り戻すことができる。祥太は迷わず、薬を美夏へと渡した。いま美夏の目の前、テーブルに置かれている薬がそれだった。  …………そして、あの霞む町にある工場で、この薬は作られている。  知っているから、その景色は、祥太にはまるで違って見えた。吐き出される煙、そのおかげで笑顔がある。きっと、この薬に限ったことではない。人々が求めるもの、それを満たすたびに吐き出される。空を汚す煙は、先急ぐ文明科学の息吹のようなものだ。  真っすぐな彼女は、真実を伝えればきっと薬を飲むことをやめてしまう。その薬の服用をやめれば、彼女は再び笑顔を失う。だから、祥太は嘘をついた。彼女を、彼女の笑顔を、どうしても手放したくなかったから。 「おめでとう、美夏」  心の痛みを押し込め、祥太は笑顔で彼女に言う。 「おめでとうって?今日お祝いしてくれるって言ったけど、そもそもなんのお祝いなの?私の誕生日はもう二か月も前だし」  その時もお祝いしてくれたじゃない。首を傾げながら言う美夏に、祥太は笑顔のまま言う。 「美夏が…………美夏の笑顔が戻ってきてくれた、もう一つの誕生日」  一年前、薬によって戻って来た美夏。けれど、彼女は変わった。もっと繊細で、壊れやすかった彼女はいなかった。そこにいたのは、無邪気で、天真爛漫で、まるで別人のような彼女だった。  この薬で戻って来た彼女は、本当に美夏なのだろうか。空を汚してまで取り戻した彼女は、本当に彼女なのだろうか。  それは祥太だけではない。病に心を失い、薬で心を取り戻した人々、その親しい人がみな思っていることだった。  疑問をいだきながらも、祥太は美夏に薬を渡す。真実を偽り、疑問を押し込め、彼女の笑顔を二度と手放さないために。
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