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第一章 理想の人
また太った。
そっと体重計からおりる。葉桜が風に揺れる爽やかに季節と反対に、わたしの心は薄暗い。
結婚一年目の春。
わたしの体重の増加が止まらない以外は、全て上手くいっていると思う。大抵は一年も共に暮らせば相手の粗が見えてくるものだけど、わたしたち夫婦はまだ淡い桃色に包まれた甘い生活をおくっている。
久しぶりに会った友人には、「幸せ太りね」といわれた。友人は離婚協議中で、「離婚は結婚の何倍も大変よ」と、やつれて頬の肉がおちた顔で笑顔を作った。
付き合い始めた頃は50キロくらいだった体重が結婚式の頃には60キロ。一年後の現在は75キロ。右肩上がりの増加。こうなると、この体重が減ることはないような気がしてくる。
友人の言う通り、幸せだと太るのだろうか。いや、ちがう。わたしの場合は運動不足に加担して、食生活に問題があるのだ。
「ただいま」
夫である郁生の帰りは、いつも9時か10時頃と遅い。
玄関で靴を脱ぎながらネクタイを緩めると、今日も一日が終わったと口元をゆるめて顔がくつろぐ。スーツを脱いで下着姿になった郁生と目が合う。わたしは恥ずかしくなって目をそらした。
着替えを終えて郁生が食卓に着いた。さっきまでのように髪を整えたスーツも好きだけど、前髪をおろして部屋着でくつろぐ姿も好きだ。どちらもいつまでも見ていたいくらい好きだ。つまり全部好き。
わたしは美しくない。だから美しい男が好き。
仕事の関係で知り合った郁生を初めてみたとき、「うわ……」と思わず声をあげて立ちすくんでしまった。イベリア半島あたりの血が混じっているような、男らしさと甘さがほどよくブレンドされているような顔立ち。人にはそれぞれの理想があるけれど、郁生はわたしにとってのゴールデンヒットとよべる理想の男だった。物心ついた時から漠然と思い描いていた理想の男性像が、鮮麗な実像となって現れたのだ。
ほわん、とのぼせたように目を奪われていた私に、担当の女史がクスッと笑った。
「ああ、もしかして……残念くんに見惚れているのかしら?」
こんなに完璧なのに。わたしの気持ちを読み取ったのか、女史が声をひそめた。
「たしかに見た目は悪くないけれど。彼、仕事が残念なのよ。営業なのに詰めが甘いというか周到さがないのね。やさしすぎるのかな。ルックスはいいけれど、営業で数字を出せないから陰で残念くんって呼ばれているのよ」
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