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第二章 甘い生活
充分だと思った。こんなことをいうとヒンシュクを買うかもしれないけれど、わたしはイラストレーターの仕事が上手くいっていてお金に困ってはいない。むしろ締め切りに追われて家に閉じ籠っていることが多いので、お金を使うことがないので稼ぎ手としての男は必要ではない。だから仕事で結果がだせないくらい残念だなんて思わない、ノープログレムだ。
それよりも、わたしは理想そのものである彼を床の間に飾って眺めて暮らせたらどんなにいいことか、と思う。朝に晩にわたしの視界を満たし、時に指先を堪能させ、耳触りのいい声を聞かせてくれる。彼がいい。彼なら……わたしの妄想は膨らむ。
残念くんと呼ばれた彼を、女史が呼び止めて紹介してくれた。
そしてどういう運命のいたずらか、わたしたちは結婚した。
夫となった郁生は「少ない給料だけど――」と照れくさそうに胸を張って、通帳とキャッシュカードをわたしに預けた。はりきって仕事に出かける姿を見たら、働かなくていいから家にいてほしいとはいえなかった。数字を出せない残念くん、と女史はいっていたけど、今は結果が出せないだけで、郁生は仕事が好きなのではないかなと思えた。
仕事が好きで頑張っているけれど結果が思うようにでなくて苦しんでいる。美しい男が悩み苦しむ姿は憂いと哀愁があってすてきだ。床の間に飾っていては見ることができない生がこちらにはある。
床の間に飾る妄想は破れたけれど、そんな郁生の背中を見るのも悪くはないと次第に思えるようになってきた。
あの調子で頑張っているなら、郁生が仕事で結果を出せる日は遠くない。そうなったら残念くんなんて陰口は返上だ。けれどそうなると、世間は顔がよくて仕事ができる男を放っておかない。
するとわたしの心配事は果てしなく増えていくのだ。わたしは美しくない。郁生と並ぶと、わたしはどうしてもっと美しく生まれることができなかったのかと、鏡の中の自分を直視するのが辛くなる
――どうしてわたしを選んでくれたの? 本当にわたしでよかったの?
何度も言いかけては喉元に痞える言葉。知りたいけれど知りたくない。
けれど郁生は、そんなわたしの不安をよそにやさしさに溢れていた。
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