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「頼むよ、あと一回だけでも」
「もう何回も突っ込んだ!」
従業員用男性トイレの前で、立ち止まった怜太郎ははたと耳を澄ます。
マネージャーの高之と沙羅の声だった。
「やだよ! ぬるぬるしてきて気持ち悪い」
「後でちゃんと洗い流せば平気だって。な?」
声を潜めているつもりだろうけれど意味深なやり取りに、そっとドアを開けてみる。
そこには洗面所の排水口の蓋を外して中に手を入れた沙羅と、それを見守っている高之の姿があった。
「あっ取れた」
「よくやった!」
「ああ排水口に落し物でしたか……びっくりした」
有り得ないとわかっているつもりでも、あらぬ想像をしてしまった。
チグハグなこの二人の間に限って如何わしい交際が起こるはずもなく……仕事中の不埒な妄想を頭から瞬時に追い払う。
「カフスボタンを片方……」
「朝陽くんに貰ったんだってさ。幼馴染み同士だからって高級ブランドとか誕生日にあげたりする?」
細い指先で摘んだカフリンクスを高之に押し付け、沙羅はハンドソープで念入りに手を洗う。
そしてズバリ疑わしいプレゼントにツッコミを入れて、ペーパータオルで拭きながら、目を細めて高之を見上げた。
「それまだ言うのかよ……」
「嘘だよね。付き合ってんじゃん? やっぱ」
沙羅はまだ朝陽と高之の関係を知らずにいる。
他のスタッフに知れ渡るのを懸念して、気付かれるまでは秘密にしていようと思っていたからだ。
「沙羅くん、幼馴染み事情ってあるんだよきっと」
「違うね、こんなプレゼントはカップルでするもんだ。それとも、二人してここで言いくるめようとするなら俺は他の人に聞いて回るもんね」
シンプルだけど気品のあるデザインのカフリンクスを念入りに付け直して、高之はカマをかける沙羅を横目で見た。
「……俺を脅す気なの、お前」
「真実が知りたいだけ。誰かに聞かれても絶対に口は割らないってば」
はあ、と溜息を声に出して高之は肩を下げる。
「……認めるけど……絶っ対に誰にも言うなよ」
「ほらね! 睨んだ通り!ずりーよ、 内緒にしてるなんて。昇も知ってんだろどうせ」
不貞腐れるというより拗ねた沙羅の顔を覗き込んだ。
「もし昇が知らなかったとして、お前あいつに秘密に出来たかよ?」
「……うっ。そ、それは……」
最近目に見えて昇にぞっこんでいるような人間が、知らないなら尚更話したくなるような秘密を内緒にしていられるとは考えにくい。
「まあまあ。良かったじゃない沙羅くん、信用して教えてもらえたんだからさ」
「そっか……あーでも二人が一緒にいるとこ見たら俺ニヤニヤしちゃうかもしんない! どうしよ」
「だから言いたくなかったんだっての」
べーと舌を出して退散した沙羅を見た高之は、朝陽に相談する前に認めてしまったことを後悔した。
「まずかったかな……」
高価なものだとは分かっていたし、何せ気まぐれに思いついただけとは言え、初めて朝陽からまともに誕生日プレゼントで身に付けられる物を貰ったのだ。
大切に仕舞っていたら『高之が使わないなら俺が使う』と言われ、恐る恐るつけてきて、気にしすぎる余りにつけ直そうとしてヘマをした。
紛失してしまったら一生悔やむに違いなかったことを思えば、安い代償ではあったが。
「大丈夫。彼、ああ見えてそんなに子供じゃないですよ」
怜太郎は目を細めて柔らかく笑い、ふと、あることを思い出して高之を振り返った。
「……そのブランドの店って銀座じゃない?」
「ええ。確か、話ではそうでしたけど」
確かあれは昨年の十月のこと。
銀座の百貨店へ、バーで着用する新しいシャツを買いに行った時のこと。同類かと思うカップルがショーケースのカフリンクスを選んでいた。仲良さげに密着して。
片方は背が高く、体躯の良い少し日本人離れしたイケメンで、片方は朝陽に背格好もかなりよく似た男の子だと思った。
やや遠目だったのでハッキリとは断言出来ないが、今思えばあれは朝陽だったのではないだろうか?
「何です?」
「……いやあ、いいセンスだなと思って……聞いただけで」
「っていう顔してないですけど」
はぐらかした怜太郎の、肩先の壁に高之は手を着いた。
明らかに様子がおかしいのに、そんな安直な感想が言いたかっただけの様には見えない。
しかも誤魔化すにしては、彼らしからぬ動揺振りだ。
「……壁ドンされるならムードがある所が良かったなあ……」
「朝陽に関する隠し事なら逃しませんよ。白状してもらいましょうか、柏原さん」
落ち着いて、と言って怜太郎は手のひらで防壁を作った。
そして刺激しないように可能な限りの前置きをする。
「彼が浮気するとは考えられないと思うよ」と。
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