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わたしは思わずそっと小さく声をかける。
「…あの、お忙しいようでしたら。わたし、出直しても別に」
彼は我に返ったようにふと顔を上げた。
「あ、ごめん。ちょっと、面倒なとこにかかってたから…。もう平気だよ。済まないね、こっちから呼びつけておいて。…まあ、そこに掛けて。コーヒーでいいかな?」
「あ、すみません」
思わず腰を浮かすわたしを手で制して、彼はこきこきと首を鳴らしながらキッチンに立っていった。背中越しに穏やかな声で告げる。
「いいよ、座ってて。ここの使い勝手なんかわからないでしょ。て言うか、このキッチン、使ったことないんじゃない?ここ来る時ってそんな余裕ないでしょ、いつも」
「正直キッチンがついてることも意識してませんでした」
思わず白状すると彼は軽く笑った気がした。最初の印象ほど気難しい人ではないらしい。
こぽこぽ、と大きな音がし始めていい香りが部屋中に漂った。ここに来る前は想像もしなかったほどゆったりと背中の力が抜けて、思わずリラックスしてしまう。あんまり警戒を解くのもどうかとは思うけど。
何と言ってもセックス・クラブの統括者。コーヒーを頂いてしばし談笑したあと、じゃ、服全部脱いでみて、とか事も無げに言い渡される可能性もないとは…。
彼はさっきまで睨みつけていたノートパソコンをぱたりと閉じ、テーブルの上に置かれていたiPadを引き寄せた。目にも止まらぬ速度でささ、と操作する。画面を眺めつつ素っ気ない声で呟いた。
「…本名矢嶋夜里。通称『夜ちゃん』。なるほど、下の名前の頭の一文字を取ったってことだね。ヨリがヨルだから、耳で聴くとあんま変わんないんだな。…これは自分で考えたの?」
わたしは肩を竦めた。
「いえわたしをここに連れて…、紹介した人たちが。ここでは通称しか使えないからって。何か考えよう、って皆でわあわあ言いながら決めてくれました、勝手に」
「夜の里、でヨリか。…いい名前だね。あまり他にはないんじゃないかな」
突き放したような声の冷たさに構わず彼はiPadの画面を見ながら呟いた。わたしはちょっと苦笑いを浮かべる。
「ええまあ。親は何考えてたんですかね、夜の里だって。…生まれながらに日陰者の匂いのする名前ですよね」
本当に、どういうつもりだったんだろう。もっと明るい、希望に満ちた名前をつけたいって思うのが普通の親じゃないかな。
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