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 夕陽を見るといつも最悪な記憶が蘇って、頭の中が真っ白になる。  あれは、つれあいが一人目の子を出産した直後のこと。  彼女は生死の境を彷徨っていた。  出産は長時間に及ぶ難産で、胎の子に、早く彼女を苦痛から解放してやってくれないか、と心の底から願ったものだ。  だから、やっと産まれたこどもが産声を上げた時、私は我が子の誕生よりも、彼女が産みの苦しみから漸く解放されたことに安堵した。  ――お疲れ様。よく頑張りましたね。ありがとう。  労いの言葉を掛けようと、それまでも握っていた彼女の手を強く握り直したところで、異変に気付く。  いつもあたたかな彼女の手が、まるで氷のように冷たかった。  母のぬくもりを求めて泣きじゃくるこども。  急に慌ただしくなる医師と看護士達。  ビリビリと肌に伝わる緊迫感。  彼女の青白い顔。  分娩台に滴る赤。  あの時の彼女の手の冷やかさを、私はどうしても忘れられない。  ――愛しいひとを失いたくない。    ゆづるさん、お願いです。まだ、私を置いていかないで。  彼女の身に突如として差した死の影に、血の気が引いた。  動揺して、凍りついたように動けなくなった私の腕を手術着姿の誰かが引き、何やら声を掛けてくる。  焦れたように背中を押され、とうとう分娩室から追い出された。……私は、彼女の傍にいたかったのに。  分娩室の外の世界は夕焼けで真っ赤に染まっていて、その中で私はひとり、彼女がいなくなるかもしれない不安に怯えていた。  ――できることならば、私の命をあなたに分けて差し上げたい。  集中治療室にて、眠り続ける彼女の手を取り、命が消えてしまわないように強く、堅く、手を繋ぎ、ただ只管祈り、彼女を呼び続ける。  ――私の、なによりも大切なひと。    これからは、今まで以上にあなたを全身全霊を以って全力で護ります。だから、お願いです。どうか、どうかもう一度、目を覚ましてください。  その願いは叶った。  彼女が私と生まれてきたこどもに会う為に、生と死の境(あわい)から必死になって戻ってきてくれたから。  けれども、大円団というわけにもいかない。  この世の理として、願いを叶えるには、どうしても代価が必要だ。  今回の願いが叶うにあたり、代価(或いは代償)の内容と支払者を決めたのは、一体全体、どいつなのだろうな。  神か? それとも運命か?  いずれにしてもそいつは、実に不愉快なことに、彼女――そして、捉えようによっては私も――に、願いの代価を名目に、不条理な目に遭わせたいのだろう。  長い眠りから目覚めた彼女は、次のこどもを望むにはあまりにも危うい体となっていた。  出産に堪えられる体――それが、今回の願いの代価だ。
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