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医師から、今回の出産で母体が受けた影響を聞かされた日の翌日。
小さな我が子を抱いた彼女が、思い悩んだ顔をして、私にあることを尋ねてきた。
「矢潮さん、この子がまだお腹にいた頃に、私がこんなことを言ったのを覚えていますか?」
――この子の他にもうひとり、私たちのもとに来てくれるような気がするんです。
なんでかしらね? 気のせいにせよ予感にせよ、この感じがとても嬉しいの。
「覚えていますよ」
だって、このひとはとてもとても嬉しそうに、私に報告してくれたもの。
そして、私も彼女が感じたことの内容を想像すると、嬉しくなったから。
……医師の話を聞いた日は、自身がこれ以上の出産を望めないことについて、思い苦しんで泣いていた彼女に、そんなことは口が裂けても言えないけれど。
「私、先生の仰ったことをきちんと理解しています。『もうひとり』を望むのは難しいって」
辛い現実を再確認するかのように、坦々と話す彼女の表情は、やはり暗い。
腕の中で眠るこどもを見る為に俯かれたその顔は、絶望に打ちひしがれたというよりも、戸惑い、酷く苦悩しているように見えた。
「不思議ね。自分が出産に臨むのは難しいとわかった今でもまだ、『もうひとり』の予感めいたものはあって、やっぱり嬉しいと思うの」
その身が抱える難題と、『もうひとり』の予感が彼女を苦しめ、悲しませる。
戸惑い、悲しみ、泣き、次の出産には臨めない自身の不甲斐なさに嘆く。
だが、『もうひとり』の存在を想像すると、苦悶が嵐のように彼女の心を揺すぶる中で、何故だか、嬉しいとか、喜びの感情が星のように瞬き、悲しみに冷えた心をほのかに暖めるのだ、と彼女は困り顔で告げた。
己が内で、今も轟々と渦巻く感情を抑えようと、なんとか穏やかな声と話し方を維持しながら。
そうして、ひと通り語り終えた彼女は、こどもの頭を殊更愛おしげに撫でた後、私を見遣った。
――ごめんなさい。
辛そうに、そして、寂しそうに呟き、涙を一筋流して私たち家族に彼女は謝る。
(そうか。このひとは『難しい』と、何度も告げていた)
彼女は、次の出産は不可能、出来ない、臨めない、望めない、無理――否定の言葉は一切言わなかった。
『もうひとり』の出産は、かなりのリスクを伴うと宣告されたにも拘らず、彼女はまるでひとひらの希望を求めるかのように、『難しい』と必ず付け足し、可能性を残そうとするのだ。
彼女は、自分のせいで『もうひとり』を望むのが難しくなってしまったことを私たち家族に謝った。
だが、謝った理由はそれだけではない。
自分には死と生の境から引き返してしまうほど、会いたいと強く願える大切な存在――私とこども――がいるのをわかっていてなお、死を覚悟して産まねばならない『もうひとり』を望もうとしている。
……『もうひとり』の誕生と同時に、家族を遺して死ぬかもしれないと覚悟をしてまで。
だから、謝ったのだ。私と腕の中の小さな我が子に。
そして、やはり自分が『もうひとり』を望むのは難しいと理解し、諦めようともしている。
だからこそ、彼女はここにはまだ存在していない『もうひとり』の我が子にも、謝ったのだ。
妻であり、母でもあるこのひとをなんとかして慰めたいのに、私は黙って抱き締めることしかできなかった。
あんなに苦しい思いをして子を産み、一度は死にかけ、己の体の危うさを知って尚、彼女は『もうひとり』の予感を『嬉しい』と言うのだ。……言えてしまうのだ。
母とは、なんと強いのか。
彼女のつれあいであり、父でもある私としては、もう、『もうひとり』は望めない。
望めば、次の出産で、彼女は確実に命の危機に瀕するから。
今度こそ、失ってしまうかもしれないから。
それでも、もし本当に"次"があったなら、彼女は生と死のどちらを選ぶだろう?
なんとなく、答えの予想はつく。
彼女は、良くも悪くも母親だから。
だから、彼女を遠くに行かせまい、離すまいと強く抱き締めた。
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