愛するということ

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 *****  その日の夕間暮れ、春人は長野駅前の飲み屋で北見と会っていた。誘ったのは北見で、「おまえと酒が飲みたい」というのが理由らしかった。春人も前々から北見と飲んでみたいとは思っていたため、すぐさま誘いに乗った。  店に入り、適当な席に座る。店内はすでに大勢の人で混み合っていた。とりあえず二人分のビールを頼み、さてつまみは何にしようかとメニュー表を見ていると、突然隣のテーブルから「北見!」と明るい声が掛かった。春人と北見の二人が声のしたほうを見る。そこに座っていたのは、グレーのスーツを着た四十代後半ほどの見てくれの男だった。 「なんだ、滝本か」  北見が男に向かって笑いかける。滝本と呼ばれた男は、どうやら北見の知り合いのようだった。 「そっちの子は?」  滝本が目で春人を指して問う。北見は迷うことなく答えた。 「俺が十年前に担当した事件の関係者。さっき駅前で偶然会ったんだ。こいつのほうから声を掛けてきてな」  後半は北見の嘘だった。刑事というのはこうも簡単に嘘を吐くことができるのか、それとも単に北見がそういう人間なのかと、春人はわけもなく考えた。  滝本が春人の顔をまじまじと見る。それから彼は、「もしかして」と声を上げた。 「君、木村春人くん?」  滝本の言葉に春人は目を見張った。「ご存知なんですか、僕のこと」  驚きを隠せずに問うと、滝本は肩をすくめた。 「俺もあの事件の担当だったんだよ。その様子じゃあ、覚えていないみたいだね」  なるほど、彼も刑事だったのか。互いに敬語を使っていないあたり、北見と滝本は同期なのだろう。納得すると同時に、よく十年も前の事件関係者の名前を憶えていたな、と春人は感心した。一方北見は、「そういえばそうだったな」と思い出したように言う。記憶力は滝本のほうが上らしかった。 「悲しいな。北見のことは覚えていたのに、俺のことは覚えていないなんて」 「すみません」  春人が軽く頭を下げると、滝本は冗談だと言って豪快に笑った。やけに馴れ馴れしいとは思ったが、おそらくアルコールのせいだろう。春人は若干引き気味になりつつも、顔を上げて作り笑いを浮かべた。
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