愛するということ

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 無機質なアラームの音で目が覚める。視界に入ったのは、いつもと同じ真っ白な天井だけだった。  木村春人は今日、ある男と会う約束をしていた。春人がその男と会うのは、実に十年ぶりのことだった。  淡いブルーのカーテンの隙間から朝日が細く差し込む。枕元のスマートフォンを見ると、時刻は午前九時を少し過ぎたところだった。顔を洗い、歯磨きを済ませる。クローゼットの中から適当に服をひったくり、部屋着のスウェットから私服に着替えた。それから全身鏡で身なりを整えた後、黒いバックパックから大学で使っている教科書や筆記用具などの雑品を出し、代わりにアルバイト先の制服を詰め込んだ。  五月になって間もない土曜のその日、男とは長野駅前のカフェで待ち合わせた。春人はバックパックを背負って自宅アパートのある本郷駅から電車に乗り、終点の長野駅で電車を降りた。  待ち合わせ場所のカフェは最近できたばかりの店で、天上からぶら下がる照明やら、壁の違い棚に飾られた小さな観葉植物やらは、都会の洒落た雑貨屋を連想させた。定刻より二十分早くカフェに着いた春人は、入口にほど近い席に座り、店のおすすめらしいブレンドコーヒーを注文した。コーヒーがテーブルに置かれるなり、春人は一口飲んでカップを置き、バックパックの底に入りっぱなしになっていた文庫本を取り出した。もう何十年も前に逝去した小説家の著書だ。春人は栞の挟んであるページを丁寧に開き、本を読み始めた。しかし文字を目で追いながら、頭ではこれから会う男のことばかりを考えており、本の内容はあまり頭に入ってこなかった。  そうして春人が本を読み始めてから二十分ほど経った頃、ダークスーツに身を包んだ男がやって来た。齢四十をとうに過ぎたはずだが、彼は十年経ってもまったく老いたふうがなかった。むしろ男の色気のようなものが増したように思える。スーツ越しにでもわかる、適度に引き締まった体。ワックスで掻き上げられた髪。それらすべてが春人の気持ちをはやらせた。  男の名は北見芳裕。彼は長野県警本部に勤める刑事で、今は捜査一課の警部だという話だ。そんな北見を誘ったのは、春人のほうだった。
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