愛するということ

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「北見さん」  本を閉じて春人が声を掛けると、北見は春人のもとへとやって来て、その正面に静かに腰を下ろした。春人のカップが空になっているのを認め、近くにいた店員に二人分のブレンドコーヒーを注文する。 「待ったか」 「僕も今来たところです」  春人が答えると、「待ち合わせの常套句だな」と北見は笑った。つられて春人も頬を緩める。 「何を読んでいたんだ」 「夏目漱石の『行人』です。知っていますか」 「いや。俺はそういうのには疎いからな」  北見が肩をすくめる。埒もない話をしているうちに、コーヒーが運ばれてきた。芳香が鼻をくすぐる。二人は共に砂糖もミルクも入れずにカップに口をつけた。ほどよい酸味と苦味が口内に広がった。  カップを置いたのは二人ほぼ同時だったが、先に口を開いたのは北見だった。彼は微笑ましげな目を春人に向ける。 「大きくなったな、春人。あんなに小さかった子供が、こんなに格好よくなって……」 「ありがとうございます」春人は素直に礼を言う。「北見さんは変わりませんね」  それを褒め言葉と捉えたのだろう、北見はまたちょっと笑ってコーヒーを飲んだ。カップを置くまでの一連の仕草は、よく様になっていた。 「おふくろさん、元気か」 「亡くなりました。去年の夏、病で」 「そうか……」  北見はばつの悪そうな顔で呟く。僅かに気まずい沈黙が流れたが、北見はすぐに居住まいを正し、春人の目を見据えた。 「それで、今日はどんな用件だ」  春人は北見の目を真っ直ぐに見つめ返す。初めに何を話すべきかは、事前に考えてあった。 「単刀直入に言います」  春人はそう切り出し、小さく息を吸って続けた。 「あの日、僕は確かな殺意を持ってあの男を殺しました」  春人は軽く俯き、自身の両手を見つめる。その手には十年前に物を握った感覚がまだ微かに残っていた。  春人は両手を拳に変え、顔を上げる。 「僕を捕まえてください、北見さん」  北見は一瞬驚いたような顔をしたかと思うと、次いで困ったように頭を掻いた。「あのなあ、春人」そう言って彼はコーヒーカップを持ち上げた。 「おまえはあのときまだ十歳だっただろう。それにあれは正当防衛が認められたんだ。罪には問われない」  それは十年前に聞いた通りの言葉だった。
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