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男は行儀良く靴を揃えて部屋に上がった。ワンルームの部屋に入るなり、「綺麗にしているんだな」と男は感心したように言った。
春人がこたつの前に腰を下ろす。男は春人の斜め隣、ベッドとこたつの間に座った。
「あんた、名前は?」
「木村春人。あんたは」
「俺のことは犬でいい」
「犬?」
春人が怪訝な目を向けて首を傾げる。犬とは、動物の犬のことだろうか。彼が何故そんな自己紹介をしたのか、その理由は彼自身が次のように説明した。
「嫌いなんだ。両親と同じ姓も、両親のつけた名前も」
なるほど、彼は両親のことを嫌っているのか。家がないと困っていたあたり、もしかしたらすでに勘当されているのかも知れない。あまり踏み込んではいけないような気がした春人は、それ以上言及しなかった。
気まずい雰囲気を変えるためか、犬はわざとらしく明るい声を上げた。
「それから、歳は二十。見たところ、あんたも同じくらいか」
「ああ。同い年だ」
そう言った直後、犬は春人のほうに顔を寄せた。突然のことで反応できなかった春人は硬直する。犬は意外な言葉を口にした。
「あんた、綺麗な目をしているな」
「……そんなふうに言われたのは初めてだ」
実際春人がそんな世辞を言われたのは初めてだった。春人は面映ゆくなり、犬から顔を離す。
「もういいだろう」
言うと、今度は犬に肩を掴まれ、そのままカーペットの上に優しく押し倒された。春人はたじろぎつつ、犬に問いかける。
「あんた、そっちの人間なのか」
すると犬は春人の目を見据え、ふっと艶やかに笑んだ。
「俺は男と女、どっちもいけるってだけ。けど、あんたみたいなのは結構タイプだな」
「それはどうも」
春人は溜め息を吐き、犬の体をやんわりと押し返す。犬は大人しく体をどけた。春人はうるさく鳴る自身の心臓を押さえる。そのとき春人は、自分はこんなにも簡単に人を好きになるのか、と自分のことながら呆れた。
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