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さくらウイルス
春のホームで時間を潰すのは、そう悪い事でもない。
あと一歩のところで乗り損ねた、シルバーに黄色いラインの車体が、小さくなってゆくのを見送った。
静けさを取りもどした平日の午後の駅の構内に、どこからか舞い上げられた一枚の桜の花びらが私の足元に落ちてきて、それを拾い上げようとしゃがみこんだ。
少し埃っぽくて柔らかな風が、まるで小さな子供がじゃれつくように私の髪を散らしてゆく。
「もう……」
ふっと笑ってから髪を整えて、人差し指と親指でつまみ上げた花びらを見つめた。
やっぱり、声で伝えたい。
勤務中に電話をかけることには抵抗があったけれど、今日は特別。
そう思うことにして、私はスマホを耳にあてて、空いていたベンチに座って目を閉じた。
電子音が彼を呼んでいる。
この瞬間のわくわくは、あのころと何も変わらない。
指先の花びらを見つめているうちに、ふと緩んだ私の意識は、彼との出会いに飛んだ。
中年男性の湿った息と皮脂の臭い。
雨上がりだったせいか、あの日の車両はそんな匂いで充満していたのをよく覚えている。
当時の私は高校三年生で、千葉と東京を結ぶこの路線を使って登校していた。
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