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車両を変えても、時間をずらしても、執拗に私を追ってくる痴漢男。
それから、ママとその再婚相手と始まった新しい暮らし。
『秘密だよ』
そう言ってそいつにされた望まないキスが、徐々に私を壊していった。
ちょうどそんな時の事だった。
降車駅のバスロータリーで時々見かける、寝癖がトレードマークの黒縁メガネのサラリーマン。
歳は三十になるかどうかくらいだと思ったけれど、動作が中学男子のようにどこかぎこちなくて、年齢よりも幼く感じられた。
シャツがベルトからはみ出していることもよくあって、先輩らしき女性に良くどやされていた。
彼女は彼が好き。理由はなかったけれど、直感でそう感じていた。
彼を見て、最初から胸をときめかせていた訳じゃない。
『あのひと、また怒られてる……』
そんな同情のほうが強かったかもしれない。
けれど、彼を見ているのは好きだった。
お年寄りが店先に忘れた杖を、小走りじゃ追い付けなくて途中から全速力になってようやく届けていたり、
自分が呼んだエレベーターなのにちょっとスマホに見とれているうちに割り込みして来たOLたちに奪われて乗り損ねたり、それでものほほんとやり過ごしてしまう。
彼の日常は、張りつめた私の物とは違う穏やかな空気感で満ちていた。
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