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その彼が、あの日の車両の中、私の目の前に立っていたのだ。
その日の彼はいつもの黒縁のメガネに大きなマスクをして、満員電車の中でひたすらくしゃみを繰り返していた。
『風邪でもひいたのかな……』
彼のくしゃみに耳を澄ませながらそっと顔をあげて彼を見上げると、彼は激しく目をこすり始めた。
気の毒になってしまうほど連発するくしゃみと、時折漏らす苦しそうなため息。
それでも、こんな近くで彼を観察できて、私の胸は高鳴った。
自分でも驚くほど、素直に嬉しかった。
ドアに寄りかかり、ちょっと猫背気味に窓の外を見つめているその横顔を、気づかれないように何度も盗み見た。
そして彼のメガネの奥のまつ毛が意外と長いということも、この時初めて知った。
その時だった。
いつもの男が、私の身体に自分の身体を擦り付けるように密着して来るのを感じた。
まただ、と、嫌悪感に震えながらうつむくと、肩までのセミロングの隙間に男の鼻息を感じて、思わず眉間にしわを寄せた。
私は咄嗟に、目の前で揺れている彼の上着の裾をぎゅっと掴んでつぶやいた。
ねえ、どうして。
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