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1.
「あー、マリクとセックス、したいな……」
安道正幸は、ギョッとして口元を押さえた。
何を言ってるんだ、僕は。
いくら一人きりとはいえ、ここは会社の中だっていうのに。
年度末なので会社全体が繁忙期だ。海外の企業も四半期ごとに締めがあるのが普通なので、英語の事務を行う安道も常になく忙しい。三月に入ると自然に残業が増え、疲れがたまってきている。
だが、作業中に眠気がさしてきて、のびをしながら出た独り言が、これとは。
《本当にしたいのか?》
春めいてきてるから、というには、今年はまだ寒い。
二十代の頃と違って、欲が暴走することもない。
人肌が恋しいというほど、ご無沙汰でもない。
去年の夏、エジプト旅行中にマリク・ムフタールと知り合ってから、もう半年以上がたつ。その後、マリクは異父兄と来日して、安道の隣の部屋に住んでいる。彼が年末に仕事で二週間ほど日本を離れた時以外は、週末をほぼ一緒に過ごしている。
ベッドの上のマリクは優しい。王族の末裔であることをひけらかさないし、こちらの嫌がることもしない。身体の相性もいいようで、したくないというと、嘘になる。
とはいえ。
《僕がマリクと一緒にいるのは、彼にはまだ、僕が必要だからだ》
マリクが自分に何を求めているか、知っている。
だから、マリクがもう、僕を必要としなくなったなら――。
「あー、やめやめ! 集中力切れた!」
どうしても急ぎの仕事だけ片づけて、安道は立ち上がった。非番の後輩にメモを残し、総務へいって声をかける。
「すみません、今日は定時であがります」
「安道くん、お疲れ。すまないことないよ、帰れる日はさっさとあがりなよ」
「ありがとうございます、お先に失礼します」
タイムカードを切って外へ出ると、小雨がぱらついていた。
傘をささないと駄目だな、と思った時、道の向こう側にいる黒い服の女性に気づいた。あたりは薄暗くなりかかっているというのに、ビルの前で雨宿りをしている。
彼女が着ているのは、ただの黒い服ではなかった。アバヤという、中東の女性が外出時に着るもので、髪と顔半分と身体をすっぽり覆っている。日本ではあまり見かけない姿だ。
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