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この瞬間はまだ、幸福であったはずだ。
生活に不自由はなかった。
あなたは一度着た服をもう一度と着たことがなかった。埃の存在を知ったのは小学生になってからのことだ。邸宅は常に清められていたのだ。汚れた靴を履くのは一種の流行のようなものだと思っていた。級友との会話の端々に噛み合わなさを覚えていく。
あなたはそんな噛み合わなさを、不思議な感覚として捉えていた。
すなわちそれは世間との乖離の証明に過ぎず、低学年のころは不思議で済んでいた感情が歳を重ねるにつれ明確に変貌を遂げていく。
あなたはすでに小学校の最高学年になっていて、周囲との差異を自覚していた。それは家庭環境のみならず、容貌に関するものでもあった。あなたは優れた容貌を持ち、それは明らかにほかの親兄弟や級友とは異なるたぐいの美しさだった。
周囲はその意味を理解し、同時に口を噤んでいた。
腫れ物に触れるような扱いづらさを与えていることを自覚し、あなたのなかには常に、逆流した鼻血を飲み込んだあとのような不快感が蟠っていた。
そのころ入ったばかりの女中は歳若く、また、疑問を感じたら問わずにおれぬ性分だった。彼女があなたの容貌について、ほかの女中に訊ねていたのを耳にした。
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