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踏み込んだことのなかった団地に忍び込んで大雨のなかを走り抜ける。今朝には汚れひとつなかったスニーカーもいまや元の色がわからぬほどに汚泥にまみれている。ここの住人が生涯、触れることもないような高額なスニーカーにも、汚泥はなんのためらいもなく付着し穢していた。
通路はおろかドアまで雨粒が叩いている。傘は意味をなさず、鞄と一緒にとうに捨てていた。あつらえたようにひとりの姿もない。詰襟のボタンをすべて外し、シャツを張りつけたまま階段を駆け上がった。
五階建て団地の最上階へ至る踊り場にて、百十センチの高さの壁にしがみつくように足をかける。
うるさいくらいの雨音も気にならなくなっている。プールから上がったあとのように身体が温まっている感覚があった。鼻の奥が痛むのは雨滴を吸い込んでしまったからだろう。顔面を濡らすものに涙は含まれていない。
あなたは高揚していた。観衆に向けるように大きく手を広げてみせた。
そして足に力を込める。
滑った。腹部を強かに打ちつけ息が詰まる。干した布団のような姿勢になって、しかし広げていた手の勢いに、爪先が持ち上がる。重心が頭側へと移動していく。至近から汚れたベージュの外壁をゆっくりと眺めていた。
浮遊感に至り、あなたは意識を失った。
結果からいえば、天はあなたの選択を泣いて喜んでなどいなかった。
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