満ちぬ望月 青葉の稲

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満ちぬ望月 青葉の稲

「さて困ったな」  人っ子一人いない、のどかな風景。途方に暮れて、柳瀬はメガネのブリッジを指で押し上げた。 「何と自然豊かなところよ」  出張の最終目的地、岩手。  初夏らしい真っ青な空に、真っ白な雲。強い日差しにワイシャツのボタンを三番目まで外す。  ぐるりと見渡せば、そこにあるのは山、田、畑。人の気配は皆無で、代わりに水田からスズメ、木々からはセミの声、そして山からはウグイスの谷渡りが聞こえてくる。 「……ウグイスって夏にもいるんだな」  昨日まで東京の本社にいたのが嘘のようだ。車に戻ってカーナビを見ても、画面には一本線――今いる道しか表示されず、目的地の岩手支社すら見つけられない。 「俺としたことが。事前調査が甘かったな」  鳥の高い声が合いの手を入れる。  ため息まじりに進むと、視界の隅に白い人影をとらえた。急いで車を停めて駆け寄る。  獣道の奥、白いシャツと黒っぽいスカート――人影の正体は、夏用の制服姿でまっすぐに空を見上げる少女だった。 「すみません!」  走りかけた足を、いや待てよ、と慌てて止める。少女の目が空から柳瀬へ移った。慌ててワイシャツのボタンを片手で一つ留める。 「申し訳ない、道を教えてほしいんだけど」  獣道には入らず、その場で用件を叫ぶ。人気(ひとけ)のない獣道で少女と二人きり。これはあまりいい状況ではない。  それに、ちょっとかわいいのだ。派手さはないが、可憐な少女といったところか。  こういう状況で、ちょっとかわいい少女と二人きりになるのは、自分の首を絞めかねない。  二の足を踏んでいると、 「はい、よろしいですよ」  ちょっとかわいい少女が微笑んで近づいてくる。せっかく気遣っていたのにお構いなしだ。  だがケガでもしているのか、少女は足を引きずっている。そのやたら遅い歩みに焦れて、結局柳瀬も駆け寄ってしまった。 「こんにちは」 「あ、どうもこんにちは……」 ……のどかすぎる。 「どちらへいらっしゃるのですか?」  少女に陽光が通り抜ける。黒く見えたスカートは紺色に変わり、光を含んだ白いシャツは、少女が華奢であることを教えた。  柳瀬は振り返って車を指差した。 「あの車に書いてある会社名、このへんで見たことないかな。東京から来たんだけど、道に迷っちゃって」  東京と聞いて少女が目を丸くする。 「それは随分遠いところから……。ようこそいらっしゃいました」  しなやかなお辞儀をされ、つられて柳瀬も「ご丁寧にどうも」と頭を下げる。お辞儀のきれいな子だと思った。――が、どうも調子が狂う。 「存じております。今、地図を描きますね」  言葉遣いも丁寧な子だ。それに笑った顔はちょっとではなく間違いなくかわいい。数年後が楽しみとは思うが、あくまで数年後。女子高生に興味はない。  少女がカバンからペンとノートを取り出し、さらさらと地図を描き始めた。  肩より少し長い髪は一つにまとめられている。うつむき加減のうなじからは後れ毛が細い弧を描き、不覚にもほのかな色香を感じた。決していやらしい意味ではなく、和服が似合いそうな、品のある色気だ。 ――などと柳瀬が思っていることは知るわけもなく、少女は集中して地図を描いてくれている。 「お待たせしました」  柳瀬は受け取ると、地図よりも文字を見て目をみはった。随分と手慣れた巧みな手。大人でも滅多に見ない達筆である。 「わかりづらいですか?」  見惚れていると、少女が不安げに見上げた。 「いや、ありがとう。……字、上手だね」  感嘆のため息を漏らすと、はにかんで「恐れ入ります」ときた。そんな言葉、同僚でもなかなか出てこない。よほど育ちがいいのか、親のしつけがいいのか。 「ところで、何でこんなところに?」  学校をさぼる子には見えない。 「病院へ行ってきました。昨日、体育の授業中に軽く足を痛めたんですけど、だんだんと痛みが増してきたので」  だから歩くの遅かったのか。 「大丈夫? よかったら車で――」  いや、だめだ。車に乗せるのはさすがにまずい。だが少女は両手を合わせ、すでに喜んでいる。 「バスがないので困っていたんです。近道を選んでましたが足が痛くて。それに風が変わりましたから」 「風?」 「そろそろ来ます」 「何が?」 「豪雨です」  豪雨? と聞き返して、広い――本当に広い――青い空と白い雲を見上げる。 「そうかなあ……」 「あの雲です」  指差した雲はほぼ真上にあり、モリモリモリモリッと凄まじい密度と勢いで、上へ上へと角を伸ばしている。  圧巻。圧倒。雲の成長する姿というのは、こんなにも迫力のあるものだったのか。 「入道雲とはよく言ったものだ……」  東京でも同じように見えるだろうか。いや見えない。東京の、特に都心の空は、高いビル群によってそのほとんどを埋め尽くされている。だからこそか、空を見上げる行為自体、ほとんどなかった。 「三十分以内には……というところでしょうか」 「何でわかるのそういうこと」 「何でと言われましても……」  しばし思案していたが、「何となくです」という答に落ち着いた。  この雲は恐らく、発達中の積乱雲というやつだろう。柳瀬の脳裏に彼女の牛歩が浮かぶ。 「……わかった。乗って」 「ありがとうございます!」  足を引きずる彼女に腕を貸すべきかと悩んだが――下手なことはしないことにした。
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