満ちぬ望月 青葉の稲

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 運転席へ乗り込む時、バイクのエンジン音が聞こえた。原付きが猛スピードで背後に近づいている。  ドアを閉めて通りすぎるのを待っていると、原付きの速度が急に落ち――ガンッとドアに衝撃が走った。 「オッサン、何やってんの」  開けていた窓から、低い声が響く。フルフェイスの原付きの(ぬし)が、ドアに蹴りを食らわせていた。  少女と同じ制服――女子高生か。 「……まだ二十五歳なんだが」  短いスカートから惜しげもなくさらされる生脚に、少々面食らいながら反論する。 「そっちこそ人の車に何してくれてんの。これ社用車なんだけど」 「女子高生連れ込んで何やってんだって聞いでんだよ」  フルフェイスのシールドを上げて、鋭い目でにらみつけてくる。 「君は?」 「その子の大親友」 「絶対嘘だろ」  この可憐な少女とガラの悪い女子高生が大親友なわけ―― 「ご紹介します。私の親友の藤野友里(ゆり)です」 ……人生とは実に不思議なものである。 「ユリ、またサボり?」 「んだっちゃだれ。んなごどより、ナオ、コイッツァ乗され。どごの馬の車さ乗さってんだヤラレッツォ」  岩手の方言は何やらイタリア語っぽい。非常に早口だけど――最後の意味はわかったぞ。 「ユリ、馬じゃなくて馬の骨よ」  君も冷静につっこんでる場合か。 「あと、ヤラレルって何?」 「……君は知らなくていい」 「あどでオレが教えでやっから」 「女の子がオレって言うな」 「アホか。このへんじゃトショリばんつぁんだってオレってゆーわ」  こめかみを押さえてうなだれる。……せっかくの可憐な少女が汚されてしまう。  いやむしろフルフェイス女と親友にも関わらず、これだけ清純でいられるのだから本物だ。奇跡だ。大和撫子の結晶だ。 「ユリ、こちら柳瀬さん。東京の方よ」  柳瀬は驚いて少女を振り向いた。なぜ名前を知っている。名乗った覚えはない。  ユリがエンジンをふかして威嚇する。お前はいいかげんその足をどけてくれないか。 「何でナオが東京の殿方の車さ乗さってんだよ」 「道案内をする代わりに、送っていただいてるの。お互いお互いよ」 「お互いお互いか」  それで納得するとはさすが大親友だ。  フルフェイス・ユリの足はようやくどけられたが、今度は手が出る。 「んじゃ名刺けろや」 「取引先かお前は」 「身元押さえどぐ」 「どこの刑事だ」  面倒なので素直に名刺を渡す。その名刺に肩書きは書かれていない。ヒラか、と言うユリを無視して助手席を向く。 「改めまして、柳瀬です。よろしく」  下の名前はわざと言わないでおいたのに、 「名前なんて読むのや?」  フルフェイス刑事の詰問が続く。 「……ノゾミ」 「聞こえね」 「聞こえなくていい」 「ノゾミちゃんか」 「聞こえてるよなそれ」  正直、自分の名前は好きになれない。望美――女のような名前をつけた親を恨む。そんなことを気にするなど思春期のガキかと言いたくなるが、何の解決もしないまま今に至るのだからどうしようもない。  一方助手席からは、「ノゾミさん」と唱える声がする。 「女みたいな名前だろ?」  一種の防衛本能で、あえて自分から言う。 「んだな」 「お前に聞いてねぇよ」 「せっかぐイイ名前もらってんのに、伴ってない感じだなや。頭良さそうなツラしてんのに。能ある鷹の爪が折レデッツオ」 ……お前は一体何様だ。 「私もいいお名前だと思います」  助手席を振り向くと、彼女が目を輝かせて名刺を見つめていた。 「……どうしてそう思うの?」 「それは――」  彼女がカバンに手を入れ、一筆箋と筆ペンを取り出す。そんなものまで持ち歩いているとは恐れ入った。 「あー、オレ先行ぐわ」 「急にどうした」 「ナオの講義にはついでげね。文字、好ぎなんだよね、書ぐのも見るのも。だがら日記もアドレス帳もいまどき手書き! デジタルとは無縁!」 「この子の日記が手書きだって何で知ってんだよ」 「この前なんか図書館で弘法大師の筆跡調べだりさあ」 「無視か」  しかしそういう趣味なら彼女の達筆も納得できる。 「じゃあ部活は書道部か」 「いいや。歴史研究同好会」 「なんで」 「古文書見るのが好きだから」 「納得」  もしかしたら彼女が礼儀正しく古風なのは、そこから来ているかも知れない。柳瀬にも時代小説ばかり読んでいる友人がいたが、影響されて言葉づかいが武士のようになっていた。 「ナオって本当、生まれる時代間違えだっつうが何つうが……」  言いながらユリがケータイでいきなり柳瀬の顔を撮影した。 「おい、なんだ勝手にっ」 「ナオになんかあったときの保険。あと、ついで」 「ついで?」 「うん、望美ちゃんってさ――」  ユリが助手席の友を垣間見る。彼女は呼吸を整え、筆を走らせ、首をかしげてまた書き直し――こちらの会話などまるで聞いていない。 「あんま言いだぐないんだげど。望美ちゃんって、ナオの好ぎなタイプなんだよね」 ――は? と声が出そうになる。 「バカ言え」 「マジでドストライクおめでとう」 ……いかんいかん。女子高生に踊らされてたまるものか。 「ナオって昔からこういう、年上のインテリメガネ、好ぎなんだよね」  もっとマシな言い方はないのか。 「だがらナオにこの画像見せであおってやっぺど思って。この子ピュアすぎで色恋に疎いがら。あ、でも、もちろん泣がせだら許さなねぇ……って、あらら」  柳瀬を見て、ユリが鼻で笑った。 「いいツラだね望美ちゃん。嬉しいんだ?」  柳瀬が片手で口元を押さえているのは顔が緩みそうだから、ということがユリにばれている。 「ナオが何回も書き直すなんて相当珍しいよ。望美ちゃんの名前だがら心が乱れでんじゃねえのー?」  口元を押さえる手にますます力を込める。 「そんな嬉しいなら名前に負げんなよ望美ちゃん。んでまづ! ナオよろしぐね。泣がせだらボッコにすっがら」  すでに車に蹴りをくらってんだが。  ユリはフルフェイスのシールドをおろし、エンジンをふかして走り去っていった。
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