満ちぬ望月 青葉の稲

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「……あいつが乗るとナナハンに見えるな」  原付のエンジン音が山の中へ消え、代わりにセミとウグイスの声が聞こえる。  全開にしていた窓を閉めると、冷房の音だけが耳についた。姿勢よく座る彼女の手元には「望美」と美しく記された一筆箋。 「やっぱりいいね、君の書く字は」  心底そう思う。  彼女の手元をのぞき込むと、近づきすぎたのか、ほのかにいい匂いがした。香水でもなく、幼子の匂いでもない。  女というにはまだ早いはずの彼女の匂いに、不覚にも戸惑いを覚える。  目が合うと、彼女が気恥ずかしそうにうつむいた。恥じらいのある日本女性がまだここに生き残っていたか。  彼女が「望」の字を指す。 「あの、この字にはいろんな意味がありますけど……。お名前の由来を伺ってもよろしいでしょうか……」  目の前の貴重な生き残りが遠慮がちに聞く。見ろ、耳まで真っ赤だ。 「親が言うには、満月がとても美しい晩に生まれたそうだ」 「では『望月が美しい』で『望美』さんなんですね? 嬉しい! そちらの意味だったらいいなって思ってたんです!」  ぱっと輝いたその顔に、照れはもうない。切り替えの速さにちょっとだけがっかりする。  しかし満月と聞いてすぐ望月という言葉が出るとは、さすが歴史研究同好会。 「望月だったら何がいいの?」  彼女は遠くを見つめ、静かに語りだした。 「満月のとき、月の出は日没の頃なので、部活帰りによく見ます。東の山から現れた満月は息を飲むほど大きく見えます。春の頃は赤みが強く、妖しげな印象もありますが、やはりその迫力に圧倒されます。高く昇ると遠く小さく見えますが、夜空を照らす光は他の星をかすめてしまうほどです。静かだけど力強い。心身に染み入って満たされる――太陽とはまた違う神々しさが、満月にはあるんですよね」  詩的で美しい言葉ばかりが並ぶ。柳瀬は、ふうん、と曖昧な相槌を打つしかなかった。自分とはかけ離れすぎた表現だったし、そもそもそんなに圧倒される月を見たことがなかった。 「望美さん」 「え? はい」  突然下の名前で呼ばれた。うっとりした目で彼女が見つめてくる。 「望美さん……すてきですね……好きです……」  吐息まじりの声が妙に熱っぽい。  一瞬柳瀬の中の何かがグラッと揺らいだが、額に二本指を当てて平静を保った。 「ええと……今のは、名前のことだよね?」 「はい。まるで天に祝福されているようです」 ……まぎらわしい。 「親はそこまで考えてないと思うけど。身に余る名前を付けられて正直迷惑だよ。俺はそれほど満ち足りた人間でも何でもない」  彼女が今までの恍惚とした表情を消した。 「じゃあ、そろそろ出発しようか」  視線を感じてはいたが、気付かないふりをしてギアに手をかける。 「あっ、その前にこれを……」  彼女がまた一筆箋に何やら書き始めた。手元をのぞくと、学校、学年、クラス名が次々と並んでいく。 「出席番号まで書くの?」  思わず小さく吹き出す。最後は「須藤菜穂子」という名前が収まった。女性らしい、しなやかな文字。 「スドウさんって言うの?」 「いえ、濁らないストウです」  濁らないストウ、というのが妙に彼女に合っている気がした。 「じゃあもしかして皆川(みながわ)って名字も――」 「このへんではミナカワさんしか聞いたことがないです」  なるほど、岩手の川は濁らないらしい。 「改めまして、須藤菜穂子(すとうなおこ)と申します。これ、名刺の代わりに受け取ってください」  切り取った一筆箋を、両手で差し出される。 「こら。女の子が初対面の男に名前なんか教えて」 「でも柳瀬さんの名前は知っていますし、もう『知り合い』に昇格じゃないですか?」  なんか無理矢理な感じもするが。とりあえず名刺代わりのそれを受け取る。 「ええと、じゃあ……須藤さん。あのね、君は年頃の女の子なんだから。その辺のこと少しは自覚しなさい。怖い目に遭うのは君なんだよ?」  語調がきつかっただろうか。彼女はわずかに目を見開いて黙り込んでしまった。  泣かれては面倒なので早々に謝ろうとすると、先に彼女が口を開いた。 「次からは気をつけます。心配してくださってありがとうございます」  ぺこりとお辞儀をし――上げた顔はなぜか笑っていた。 「……なんで叱られて嬉しそうなの?」 「え、そうですか?」  うふふ、と笑い声を漏らす始末だ。 「……でもまあ、知り合いなら不審者に思われないか」 「あら、不審者だなんて思いませんでしたよ」 「また君は。須藤さんって誰でも信用しちゃうの?」 「まさか。柳瀬さんだからですよ」  不意にユリが言っていたことを思い出し、慌てて口元の緩みを押さえる。 「不審者なら獣道で接近するはずですが、柳瀬さんは躊躇されました。それに会社の名前を見せながらの犯行も考えにくいかと」  よく見ている。 「でも男の車にやすやすと乗るのはダメ!」 「わかりました。でも柳瀬さんは、やっぱり悪い人じゃないと思いますよ」  菜穂子がダッシュボードに置いてある、車の使用記録の紙束を指差した。日付や走行距離などと一緒に、柳瀬のサインが記入されている。 「俺の名前を知ってたのはそれのせいか」 「この筆跡からきちんとした印象を受けました」 「だから何でわかるの、そういうこと」 「何でと言われましても……」  柳瀬が苦笑する。また「何となく」なのだろう。 「じゃあ行こうか」  初夏の陽光を浴びて輝く緑の中、二人を乗せた車が走り出した。  菜穂子が「望美」と書いた一筆箋は、記念にもらってポケットへしまった。まだこの名前を受け入れる気にはなれないが、菜穂子の書いた文字は好きだと思った。
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