1人が本棚に入れています
本棚に追加
◇
理性が失せ、狂った獣の様になった人は、最早、人とは呼べないと、心底思った。
ある者は意味もなく叫び散らし、またある者は動くものを執拗に追う。
――混乱。
就業を迎えた社内で冷静を保つ者など居なかった。
普段頼りになると思っていた人が、パートの女性を押しのけ、仮にパンデミックが起こったらホームセンターに立て籠もると言っていた人は、その場でしゃがみ込んでいた。
――かく言う俺、佐奈田 志希(さなだ しき)もその一人。
自分でも気づかぬ内に、手近にあったパイプレンチを持って会社を飛び出していた。
車で来ては居たが、駐車場の出入り口が逃げようとした車で塞がれていた。
道すがらに乗り捨てられていた自転車で、感染者や逃げ惑う生存者を掻い潜り家を目指す。
道中、二十歳程の男の感染者の姿が自身と重なり怖気がした。
もう少しで、辿り着く……その時だ。
「――もう、いい加減にしてよ!」
少女の声がした。
脇道の先にその陰が見える。
腰程度の長い黒髪の制服姿の女子高生。
学校指定であろうバックを肩にかけ、バットを持っている。
彼女が、男に追われていた。
「ぅ゛、う゛ぅ! おぉぅ!」
足取りは覚束ない小走り程度の速さ。
暗闇の中、手探りで行くようで、それでいて、明確に少女を追う。
異常な欲求に駆られている様にも、助けを求めている様にも見えた。
二人の距離は数メートルも無い。
「感染者っ!」
考える……より前に動いていた。
ハンドルを切って、全力でペダルを漕ぐ。
男の手が少女に届くその間際、
「っらぁっ!!」
パイプレンチの横薙ぎで顔面を打つ。
自転車に乗りながらの体重を乗せた打撃でバランスを崩した。
そのまま転がる様にして、怪我をする惨事を回避する。
地面に身体を打ち付ける痛みよりも、右手に伝わる潰し砕く感触が嫌に気になった。
確認するまでもない、殺した感覚だ。
最初のコメントを投稿しよう!