さよならファーザー、また会う日まで

3/6
前へ
/8ページ
次へ
 当初、結婚式を挙げる予定はなかった。結納もせず、両家の身内だけで集まって顔合わせの食事会をしてから年明けに籍を入れた。  1年後に子供が産まれて間もなくして、父が癌に侵されていることを知った。私は旦那と話し合い、身内や親族だけを集めた結婚式を挙げることにした。  結婚式をすることで、10年以上会っていない遠くの県外で暮らす父の兄弟達を呼んで、最後に父に引き合わせることが出来ると考えたからだ。  飛行機を乗り継いで故郷へと帰り、自分の兄弟に会いに行きたいという父の願いは、その身体の深刻な状態から家族の誰もが反対した。  寿命を縮めることになるのは、確かに当時は誰の目から見ても明らかな程の衰弱ぶりだったので無理もなかった。  ただ自分が亡くなると知った時、会いたい人に会いたいと思うのはごく自然なことだと思ったし、どんな形でも良いから父の願いを叶えてあげたかった。その結果の、結婚式だった。  放射線治療をするまでの父は痛みが酷く、痛みのせいで元々高めだった血圧も急激にはね上がり、結婚式の日まで身体がもつかどうかも危ぶまれた。放射線治療は、痛みのある原発部位に照射することで上手くいけば痛みが軽減されるとのことだった。  治療をすることでの命に関わるリスクもある為、父は結婚式が終わるまでは治療をしないと頑なに入院することを拒んだ。  抗がん剤治療については、それをしても最早効果がない状態だと医者に言われていた。折に触れて会う父の苦悶に歪んだ表情を見て、結婚式の参列は難しいかもしれないという思いが常に頭を掠めた。  気持ちがくじけそうになる中で、何度も結婚式場まで打ち合わせに子供を連れて足を運んだ。事情を汲んでくれたウェディングプランナーが、式当日は父に一切の負担をかけないようにと細部にわたり手配してくれた。  私は結婚式で読む父への手紙を書く為に、結婚式の手前に1度実家へと帰って今日のように物置から写真や日記帳を取り出した。  色褪せた写真が納められた古ぼけたアルバムの中には、父と写ったものが数枚入っていた。姉や兄に比べると、圧倒的に私や弟の写真は少なかった。  写真だけであれば、父との想い出などきっとそんなに思い出すことは出来なかっただろう。けれど、私は毎日飽きもせずとりとめのないことなどを日記帳に書き記していた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加