第35回 浪人

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 このところ、腹を切るつもりなど毛ほどもないくせに、大名家藩邸の玄関先で切腹したいと押しかけてくる浪人者が続出。玄関先を血で汚されてはかなわない。各藩邸では、いくばくかの金を包んでお引き取り願った。藩側の弱みにつけこんでの、狂言切腹というわけだ。  半年ばかり前、やはり福島家中の千々岩求女(ちぢわもとめ)と名乗る浪人者が、同様の願いで藩邸にあらわれたことがあった。戦国乱世このかた、武勇のほまれ高い井伊家は、切腹をゆすりの手段とするなど言語道断、武士にあるまじき行為と苦々しく思っていた矢先である。半四郎も同類に相違あるまい――勘解由はそう踏んだのである。  ありていにいえば、求女も金が欲しかった。妻の美穂は病弱で床に伏せっている。そこへもってきて、まだ幼い息子・金吾は高熱を発してしきりに痛苦を訴えている。だが、医師に診てもらう金はない。恥をしのんで、井伊家藩邸に参上したのだった。  そして、無理無体に腹を切らされた。後に残していく妻子のことが心にかかる求女は、「一両日の猶予を。必ず戻って来る」と必死に嘆願した。しかし、藩士たちは一顧だに与えなかった。 【「いまさら、世迷(よま)い言は申さぬものじゃ」  つかつかと歩み寄ったのは沢潟(おもだか)彦九郎であった。 「御願いつかまつる!」  見上げる顔へ、かあっとつばが飛んだ。 「恥を知れ」】     
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