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谷から吹き上げる風は悲鳴じみた音を立てて荒れ狂い、通りかかる全ての者を、月明かりの届かぬ深淵へと誘い込まんとしていた。
「やあ、聞きしにまさる大渓谷ですねえ、旦那。これなら、いくら風津の大公が執念を燃やしても、首を取ってこさせるのは無理ってもんでしょうね」
「あいつもなあ、なんだってああも俺を過大評価するんだか。禁軍まで出張らすなんて、普通の奴ならとうにくたばってるぞ」
「とうにくたばってる筈なのに生きていらっしゃるんですし、むしろ的確だったんじゃないですかね」
「成る程。あいつ、実は俺が好きなんだな。理解が深い」
「愛し過ぎてってやつですね。なんて、そうやって茶化すからとことん嫌われたんですよ」
「度量の狭い男だな。だから女に逃げられるんだ」
「それを正面から言ったのもまずかったですよね。しかも、その逃げた先が。旦那の弟君のところでしたし」
「あいつと違っていい男だからな、当然の結果だ。しかし、なんだ。俺は八つ当たりで追われたのか?」
「さて、八つ当たりなのか逆恨みなのか単に目障りだったのかは知りませんがね。ーーそろそろ近いですよ」
軽口をやめて耳を傾ければ、すぐそこまで追っ手が迫っていることを近づく喧騒が教えてくれる。
風にざんばらの髪を煽られながら、七夜は口の端を上げて小さく笑う。
「いままで、すまんかったな」
面倒事ばかりで苦労をかけたと、七夜は詫びた。
「いえいえ、楽しかったですよ」
命の恩人に少しでも何かを返せたんなら、私の人生も捨てたものじゃなかったですね、と柘榴。
いつもの調子で笑って、それからさらりと身を投げた。
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