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人生、三つの坂がある。
来月の今頃はそんな言葉で始まるスピーチをもうすぐ聞く予定だった。
今月末での退職も決まり、社宅を引き払うのに荷物の準備もあらかた整えていたある日、未来の旦那様にカフェへ呼び出された。
「ごめんな……。」
上り坂、下り坂、そして、まさか。
冗談にしても、些か質が悪すぎる。
「こっち都合で申し訳ないけれど、そういうわけで結婚は無しにしてもらいたい。」
カフェの中は平穏そのもの。
ほかの席の人はふかふかの椅子に身をゆだね、本を読んだり、パソコンを広げていたり。
その中で異様なまでに、ここだけ空気が凍り付いていく。
今、自分はどんな表情をしてるのだろう。
自分の事なのに分からない。
縋るように見た窓の外は雲行き怪しく、風に揺さぶられて、街路樹が生き物のように蠢いている。
「もちろん、それなりの償いはさせて貰うよ。」
そういって差し出されたのは、銀行のATMで置かれてる封筒で。
中身はきっと自分の値段。
「後は追って連絡する。」
悲しいのか、苦しいのか、憎いのか。
感情は乱れ混じり、一つの言葉になる前に霧散してしまう。
言わなければならない事は山ほどあるのに、何一つ声にならない。
目の前のスクランブル交差点を渡る人の群れのよう。
青信号と共に乱れ混じり、赤信号とともに霧散する。
詞乃はそっと封筒を彼の前に突き戻すと、首を横に振った。
ボタボタと大粒の雨が降ってきて、窓に筋をつけていく。
街中は傘の花が開き始め、傘を持ってない人は急ぎ足で建物の中へと駆けていく。
「二度と連絡してこないで。」
やっとの思いでそれだけ言って、ほとんど飲んでないコーヒーをそのままにカフェを後にする。
後ろから追いかけてくる気配がしたが、大雨の中へと走り出したら、その気配も消えた。
それが三日前。
こと葉は再び渋谷駅前に立っていた。
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