第7章 過去に遡っての全てまで

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そんなわたしの内心の呟きを知ってか知らずか、加賀谷さんは平然と答えた。 「そんな訳ない。ここに現実に一人いるんだから。この世界に一人でも存在するなら他に少なくとも百人はいる筈だ。ごきぶりと同じようなもんだよ、つまりは。男だってさ」 その日の加賀谷さんは自家用車出勤だった。女の子か退出する際やスタッフの出入りに使われる裏の通用口から彼の後について出ようとする時、通路ですれ違った黒服に一拍おいてあ、と思う。振り向いたけど向こうは見向きもしなかった。ちょっと気づくのが遅れたからタイミングが外れた可能性もあるけど。 あれ以来、ここで声をかけられたことはないから(わたしの方もかけたことはない。勿論、彼に気づかないでいることが多いからかも)特に知り合いとして振る舞おうという意思はないみたいだ。 肩を竦める。まぁいいか。あんまり気にはならない。言葉をやり取りする仲になったからってどうってことはない。知り合いが増えても思ってたより面倒ってほどではないことはだんだんわかりつつあるけど。 「でも、今回のことで会社で話せる人が増えたのはちょっとよかったです。わたし、本当に友達全然いないから。思ったより普通に話せるみたい。相手は限られてるけど」 なんか普通の子みたいなこと言ってるな。照れつつ助手席でそう打ち明けると、加賀谷さんは前方から視線を外さないまま首を傾げた。 「お前はそう言うけど。俺は夜里がコミュ障って言われても正直全然わからないから。初めて会った時からごくまともだったよ、お前は。話し振りも明晰ではっきりしてたし、態度や視線に不審なところもなかった」 そう言われてこの人とあのペントハウスで初めて会った日のことを不意にありありと思い出す。何か変なことされるのかな、と内心観念して出頭したんだっけ。想像と全然違う人が出てきて穏やかな様子で丁寧にコーヒーを淹れてくれたんだった。 あの時もその後もしばらくずっと『矢嶋さん』、君って呼ばれてた気がする。いつの間に『夜里』、お前になったんだかはっきりした記憶がない。そういえば、初対面の時にすごくいい名前だ、君によく合ってるって言われたな。名前を褒められたのなんかあれで最初で最後だから、よく覚えてる。 因みに彼は二人きりの時は必ず夜里と呼ぶけど、一人でも誰か他の人がその場にいると『夜』って呼ぶ。多分本名を誰にも知られないよう気遣ってくれているんだと思う。
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