急ぐ乗客

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急ぐ乗客

「斎場まで」  そう言って乗って来た客は、『急いでくれ』を連呼した。  説明はろくにないが、どうやら葬儀に間に合わず、直接火葬場へ行くらしい。  事情が事情なので、ナビと経験を頼りに渋滞を避け、可能な限り迅速に客を目的地に送り届けた。 「ありがとう、間に合った。これできちんと成仏できる」  言うなり客の姿が掻き消えた。  あまりのことに茫然とその場に固まっていると、程なく斎場から年配の婦人が出て来た。私を見つけて寄って来ると、タクシー代はいくらか尋ねてくる。  訳が判らず事情を尋ねると、さっき乗せた客こそが、たった今火葬で送られた故人だと教えられた。  婦人が言うにはあの客は、長患いで入院していたのだが、先日亡くなり、知人の葬祭センターで弔われた婦人の旦那さんということだった。 「主人は死後、どうやら自宅に帰っていたようで、さっき、葬祭センターから斎場へ向かうバスの中でうたた寝した孫が、夢の中でおじいちゃんが、『俺の体はどこだ』と言っている…と訴えまして。皆で火葬場にいると念じたら、焼かれる寸前に『間に合った。タクシーに代金を払ってくれ』と声がしたんです」  そう話してくれた後、婦人は私に何度も頭を下げ、ここまでの運賃を遥かに上回る謝礼を置いて去って行った。  自分が焼かれる場に間に合おうとする幽霊とは。前代未聞の客を乗せたもんだよ。  でも、間に合わなかったらとんでもないことになっていただろうから…心から間に合ってよかった。 急ぐ乗客…完
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