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この地の領主は医王院家であるが、宗家の当主・是貴は病が篤く、実質的に家督を継いでいる嫡男・是周は強権的で、一族衆・家臣から成る家臣団、配下の国衆らの信頼を失っていた。そして家臣団と国衆らは、分家である佐山医王院家の当主・貴豪を是貴の養子とする形で推戴し、是周の後に据えた。
その座を失った是周は身柄を拘束され、幽閉されたと聞く。いわゆる「押込」である。
分家の佐山医王院家も領地を分けられた有力な一族衆であり、此度の宗家相続も、貴豪本人による家臣団、国衆らへの事前工作と時宜を見計らっての挙兵により事が成った。これも下剋上の一形態と言えるものではある。
しかし、押込を為した側にも言い分はある。宗家の当主が病床にあり実権は嫡男・是周に移ってはいたものの、是周は猜疑心が強く、一族衆はもとより累代の家臣の些細な落ち度を理由に所領の没収や役の取上げを行っていた。その中でもっとも危険視され冷遇されていたのが貴豪であった。医王院家の分家ではあるが、その領地である佐山の統治の手腕には優れたものがあり、家中の人望も厚く、ゆえに宗家の是周を警戒させ、佐山と境を接する稗田氏との交渉を行う「取次」としての既得権を取り上げられていた。さらに領地の半ば近くを召上げられるに至り、貴豪の乱世を生き延びるための闘争心に火がついた。
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